ぜぇぜぇ、と息を切らしながら──
ズルズル、と足を引き摺るようにしながら──
白髪のその男──司馬熹は山林を駆けていた。
「趙です。趙に行きましょう。私はこれまで陰で趙と誼を通じてきましたからねぇ。中山国の情報を売ったり、愚かな王をそそのかしたリ、趙のために手を尽くしてきました。その私が行くんですから、喜んで出迎えるに決まっているでしょ~~~~~!」
誰に言うでも無く、かつて中山国の宰相に居座っていたその老人は、この先にある展望が順風であることを微塵も疑っていなかった。
「趙でも宰相になって~、またぐっちゃぐちゃにかき乱して。も~~~~っと大きな戦乱を起こしちゃいますよ~~~~~~☆」
子供が軽い気持ちでいたずらに興じるように、この老人もワクワクと胸を躍らせていた。
「んげっ⁉」
その時、地表を這っていた木の根に足を取られ、彼の体は大きく翻筋斗を打って転がり落ちた。大事に抱えていた袋も中身をぶちまけるようにして転がり、そこから眩いばかりの金銀・宝玉がこぼれ落ちる。
「あ"あ"ッ、私の財宝が~~~!」
慣れた手つきでそれをかき集めながら、
「それにしてもここは不愉快な場所ですねぇ。この私に膝をつかせたのですから。後で焼き打ちにしてあげましょう」
などと言い出す。
と、その時であった。
前方から、まったく足音を響かせる事無く現れた無数の人影が老人を覆い尽くす。
「ん? ……げぇ、きょ、鉅子ッ⁉」
顔を上げた老人の目に映ったのは、白装束姿で獣の頭を象った面で顔を覆った者。その隣に立つ、顔の右半分だけを面で覆った男。そして、その二人の背後に侍るのは、同じく白装束に身を包んだ男たちだった。
白──
白────
白────────
禍々しいまでの白一色に統一された異様の集団であった。そして、彼らの袖下でなびく大きな太極図が、その存在感をより一層際立たせていた。
「よう、随分と羽振りがいいみたいだなぁ、司馬熹ィ」
半面の男が愉悦そうな笑みを浮かべて言う。
「い、いや~、コレはその……違うんですよ~。お土産ですよ。貴方がたへのお・み・や・げ。私が独り占めする訳無いじゃないですか~~~。ささ、どうぞお納めください、鉅子」
司馬熹はけらけらと笑いながら、財宝の詰まった袋を獣面の者に差し出す。
しかし、鉅子と呼ばれた獣面の者はそれを受け取ること無く、わずかな隙間から覗く冷めた視線でただ老人を見下ろすのだった。
「……【墨家】の掟は?」
「え? えっとぉ……」
獣面の者──鉅子から向けられた匕首のように鋭い問いに、何とか言い訳を繕おうとした老人であったがどうしても思い浮かばず、
「城が落ちる時はすなわち、自らも死ぬ時」
苛烈とも思える鉄の掟をそらんじる。
鉅子はコクリとうなずき、
「では──」
死になさい──
吐き捨てるように言い放つ。
刹那、どこからともなく現れた細い数本の糸が老人の細首を絡め取り、その体を軽々と舞い上がらせる。
「ぐ……ぎぎぃ……」
木と木の間で高々と宙に吊るされた司馬熹は、首に深く食い込んだ糸を解こうともがくが、もがけばもがくほどに細糸は皮膚を破り肉を抉ってゆく。
顔は血管という血管がくっきりと浮かび上がって異様なまでに紅潮し、苦悶の表情で全身をばたつかせて抵抗を試みる司馬熹。しかし、時間の経過と共に動きも声を消え失せ、やがて舌をだらりと垂らした無念の形相で縊死を迎える。
獣面の者が指をパチンと鳴らすと糸は瞬時に消え失せ、司馬熹は──司馬熹の死体は自らが不愉快と言い放った場所に落下すると同時に、首元から鮮血を吹き上げながら前のめりに倒れる。
「おおぅ、相変わらずやることがえげつないねぇ」
「……貴方ほどではありませんがね」
半面の男の軽口に、獣面の者は何の感情も発露することなく答える。
「そんで、紅い宝珠はどうすんのよ?」
「貴方に任せます。私は別件がありますので」
「へっ、そいつはありがてぇ。俺はあの楽毅ちゃんにがぜん興味が湧いてきたところだからよ!」
両の拳を胸元で重ね合わせ、半面の男は不敵に嗤う。
「……では、そろそろ行きましょうか」
目の前に転がる哀れな骸を瞥見し、鉅子と呼ばれた獣面の者と半面の男、そして白装束の集団──【墨家】は、音も無くその場から姿を消した。
そこに残された司馬熹が──かつて司馬熹だった者の亡骸が発見されたのは、それから数ヶ月も後のことであった。
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