寒々とした空気が周辺（あたり）を支配している。

　季節はまだ初夏だというのに、そのような事など御構い無しに、弓の弦（つる）のようにピンと張りつめたそんな危うい空気だ。

　そもそも、この室内自体が異様なまでに無機質であった。

　だだっ広い、とにかく広い空間の中にあるものは数器の宮灯（ランタン）と玉座のみだ。

　今、この異様とも言える空間にいるのは、虎皮を背にかけた玉座に座した男と、その男の面前で腰をほぼ直角に曲げた状態で拝礼する色白の男。

「……失敗（しくじ）ったのか？」

　最初に沈黙を破ったのは、気だるい面持ちで玉座に座す男──武霊王（ぶれいおう）だった。

「は。何の申し開きもございません」

　感情の無い冷徹なその言葉に、色白の男──李兌（りたい）は柳の如（ごと）く嫋（たお）やかな体躯（からだ）をさらにしならせ、謝意を表す。

「やはり凶手（しかく）風情ではあの宝珠の力を打ち破ることは出来ぬか」

「いいえ、それが……」

　武霊王（ぶれいおう）の言葉を制する李兌（りたい）。しかし、何か言いづらそうにすぐに口を噤（つぐ）んでしまう。

「いいから続けろ」

「はっ」

　まるで岩の如（ごと）く鈍重な器物で殴りつけられたかのような重圧（プレッシャー）に、李兌（りたい）の額から一滴の汗が床へと滴（したた）る。

「凶手（しかく）の話では楽毅（がくき）は宝珠の力を使うことは無く、任務を遂行出来なかったのは趙勝姫（ちょうしょうき）公女（こうじょ）殿下が楽毅（がくき）と共におり、これを阻害したから、と申しておりました」

「趙勝姫（ちょうしょうき）が？」

　その言葉に、武霊王（ぶれいおう）の太い眉毛が不快を示すように吊り上がる。

「間違いないのか？」

「は。天女の如（ごと）く美しき容貌（かおだち）。凛とした佇（たたず）まいに毅然とした態度。間違いなく趙勝姫（ちょうしょうき）様だったと申しております」

　報告を聞くや否（いな）や、武霊王（ぶれいおう）は大きなため息をひとつ吐き出し、

「あのじゃじゃ馬め、また女官の目を盗んで市井（しせい）に紛れこみおったのか」

　頭を押さえながら苛立（いらだ）たし気につぶやいた。

　──どうせまた趙何（ちょうか）を巻きこんだのだろう。本当に困った者たちだ。

　武霊王（ぶれいおう）は天井を仰いで目を閉じた。

　粗野粗暴で民草にしょっちゅう乱暴を働いていた義兄（あに）の趙章（ちょうしょう）と違い、下の二人は普段はおとなしく、とても聞き分けの良い子だ。しかし、人の上に立つ者がこう頻繁に民の前に現れると、段々とその高貴な存在が軽んじられてゆく。武霊王（ぶれいおう）はそれを危惧していた。

　さらに趙勝姫（ちょうしょうき）に至っては孟嘗君（もうしょうくん）に並々ならぬ憧憬（しょうけい）を抱いており、自らも偶像（アイドル）になるなどと豪語しており、彼にとっては大きな悩みのタネであった。

「まったく、誰に似おったのか……」

「は？」

「何でも無い。忘れろ」

　思わず吐露してしまった言葉を即座に取り消す。

　李兌（りたい）もすぐに空気を読んで、この話題にこれ以上触れることはせず、

「それで楽毅（がくき）の件なのですが」

　と話を本題に戻した。

「兵士の話によればどうやらすぐに邯鄲（かんたん）を発（た）つようで、今はそのための準備をしているとの情報です」

　いかがでしょう、と言って李兌（りたい）はようやく顔を上げ、

「奴らが邯鄲（かんたん）を出た時、再び凶手（しかく）を放ってみては。今度は私自らが赴（おもむ）き、必ずや主上（しゅじょう）の禍根（かこん）を絶ってご覧に入れましょう」

　優男（やさおとこ）の外見と乖離（かいり）した妖しい笑みを浮かべてそう言った。

「……もう良い」

「は？」

「もう良い、と言ったのだ。あんな小娘のことなどもう捨て置け」

　てっきり地獄の底まで追いつめるくらい楽毅（がくき）を嫌い抜いていると思いこんでいた李兌（りたい）は、思わず拍子抜けしてしまう。

「それよりも李兌（りたい）。例の件はどうなっておる？」

　視線を落とし、武霊王（ぶれいおう）が訊（たず）ねる。

「は、その事でしたら重臣の方々から多くのご賛同を得られております。後は、主上（しゅじょう）のご裁断のみでございます」

　その言葉に武霊王（ぶれいおう）は満足そうな、それでいてどこか愁（うれ）いを帯びた瞳で笑った。

「申し上げます」

　その時、ひとりの兵士が駆け足でやって来ると、

「大尉の趙与（ちょうよ）様が主上（しゅじょう）へのお目通りを求めております」

　膝をついて拝礼し、うやうやしく告げた。

「あやつめ、楽毅（がくき）のことを耳聡（みみざと）く嗅ぎつけてさっそく小言を言いにやって来おったか」

　苦笑する武霊王（ぶれいおう）。

「いいだろう、通せ。李兌（りたい）、お前ももう下がってよい」

　拝礼を残し、二人はその場を後にした。

「さて、退屈しのぎに五月蠅（うるさ）いヤツの相手でもしてやるか」

　誰もいなくなった室内で武霊王（ぶれいおう）は煩（わずら）わしそうに、それでいてどこか愉（たの）しそうにひとりごちるのだった。