まるで迷宮の様に入り組んだ回廊が延々と続く。先程から同じ様な光景の連続で、まるで絵画の中に囚われているかの如く錯覚さえ覚える。
──黒ずくめ……。この人も孟嘗君の食客ね。
先程から一言も声を発する事無く、足音さえも立てずに黙々と先導する男の服装を見て楽毅はそう察した。
かれこれ十分程歩いただろうか。もはやそれさえも分からぬ程に、時間の感覚があやふやになる。
「……こちらでございます」
低くこもった声で、男がそう発する。
楽毅は覚醒したように、ハッと顔を上げた。
いつの間に現れたのか、視線の先には、華やかな装飾に彩られた広い部屋があった。
「孟嘗君、楽毅どのと楽乗どのをお連れしました」
男が部屋の前で膝をついてそう伝えると、
「入られよ」
威厳にあふれた少女の声が中から返る。
それを受け、男はそのままの姿勢で脇に控える。ここから先は自分達で行け、という事だ。
楽毅は先導してくれたこの男に一礼し、部屋の中へと足を踏み入れた。
朱塗りの柱と無数の雪洞が両脇に立ち並ぶ。まっすぐ先に高座があり、おそらくそこに孟嘗君が座しているはずだ。
──すごい重圧……。圧し潰されてしまいそうだわ。
まるで見えない力に遮られているかの様に楽毅は高座を直視する事が出来ず、ただ下を──床を見つめながらひたすら進む。楽乗も同様に、大きな体をすぼめてその後を歩いていた。
楽毅はとある地点で立ち止まり、その場に膝をつき、頭を下げる。果たしてここが高座から近すぎず遠すぎない適切な場所なのか、下しか見ていなかった彼女には分からなかった。
しかし、彼女の足はなぜかそこでピタリと止まり、体が何者かに操られているかのように自然と拝礼の体勢を取ったのだった。
「……二人とも面を上げよ」
高座から隠然たる声が発せられる。
すると不思議な事に、あれほど感じていた重圧感はフッと薄れ、楽毅は自然と頭を上げる事が出来た。
すぐ目の前に高座があり、その両脇を黒衣の男女が固めている。馮と驩である。
要人との謁見としてはやや近い距離感に感じられたが、咎められる事は無かった。
ようやく楽毅は、高座に座す孟嘗君の姿をその瞳の中に収める。
白色と桃色の絹で編まれた上衣。髪は後頭部で束ねられ、そこに銀の簪が二本挿してある。
愛らしい顔には白粉や紅がほどこされ、幼い面とは裏腹に妖艶さをかもし出していた。
──これが齋和のもうひとつの顔なのね。
ある程度の予想はしていたが、それを遥かに上回るまったく異なる様相に、楽毅は驚きを禁じ得なかった。
「楽毅に楽乗。よくぞ参られた」
孟嘗君は凛とした面持ちと涼やかな声で歓迎の言を発っした。
「拝謁賜り、恐悦至極に存じます」
楽毅は厳粛な雰囲気に呑まれまいと、精一杯声を張り上げて一礼した。
「……中山に帰られるのか?」
不意に孟嘗君からかけられたその言葉に、楽毅はまたも驚かされる。楽毅は、自分が中山国に帰る事をまだ彼女に告げていないはずなのだ。
──食客を通じてわたしの動きを把握していたという事か……。
思い返してみると、不審に感じる出来事はあった。
楽毅はここへ来た時、門番には自分の名前しか伝えていなかったはずであった。しかし、先導してくれた男も、そして孟嘗君も、後ろに控える楽乗の名をもハッキリと口にしていたのだ。
昨日二人が再会した事も──そして、食堂で交わした会話の一部始終までもが、孟嘗君の知るところとなっていたのではないだろうか。
──本当に恐ろしいお方だわ……。
虚偽やおためごかしなど、彼女の前では無意味なのだ。
楽毅は彼女の底知れぬ力を実感すると同時に、そんな傑物から目をかけられているのだ、という誇らしい気持ちさえ感じるのだった。
「はい。ご報告が遅れまして申し訳もございません」
「気にするでない。ワシとて、趙軍遠征の報をオヌシに伝えなかった事、すまなかったと思う」
「もったいないお言葉です」
頭を下げる孟嘗君に、うやうやしく礼を返す楽毅。
──ああ、やっぱりこのお方は……このコは齋和だわ。
豪胆だけど繊細で──
高慢だけど他人をいたわる優しさを備えた──
多少雰囲気が違っていても、内面まで変わる訳ではない。
それを感じた楽毅は安堵すると共に、うれしさのあまりこみ上げるものをグッとこらえるのだった。
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