その夜──
楽邸の浴室に、楽毅、楽乗、楽間、翠の四人の姿があった。
「はあ~ぁ……やっぱり広いお風呂って開放的でいいわね。ウチは大した名家じゃないけど、このお風呂だけは自慢出来ます」
楽毅は浴槽の中で体を目一杯に伸ばし、至福に浸っていた。
実際この大浴場は四人が一斉に湯船に入ってもお互いの体が触れる事は無く、楽毅のように縁を枕にして寝そべっても迷惑にならなかった。
「それには同感いたします……。が、しかしお姉様、そのお姿は少々はしたないと思います」
浴槽の中でも正座の姿勢を崩さない楽乗が苦言を呈する。
「え~、そうですか? せっかくの広いお風呂なんですもの、これくらい良いではありませんか」
それより、と言って楽毅は上半身を起こし、楽乗の体をじっと凝視すると、
「いつも思うんですけど、楽乗さんて背が高いし体型もバツグンで羨ましいです」
うっとりと上気した表情で感想を述べる。
「ンなっ⁉︎ と、突然何を仰るのですか、お姉様ッ!」
瞬時に顔を赤く染めた楽乗は胸を手で覆い隠し、はじらいの仕草を見せる。
「だって、カッコいいじゃないですか。きっちりと引き締まっているのに胸も大きいし。本当に憧れてしまいます」
実際、楽乗の胸の量感は楽毅にも引けを取らなかった。
「わ、私の場合は無骨なだけで、この胸だってその……筋肉です。あまり柔かくありません」
賛辞に慣れていない楽乗はあたふたと取り乱した。
「私から言わせていただければ、お姉様こそ均整の取れた最高の体型です。小柄で愛らしい上に豊満なのですから」
「ん~、そうでしょうか? わたしの場合、肉が付き過ぎてだらしないような気もするのですが……」
楽毅は自身の腰回りや太ももをまさぐり、むむっ、と顔をしかめた。
程良い湯のぬくもりに酔いしれながら二人の会話を聞いていた翠は、ぜいたくな悩みだ、と思いながらそっと自分の小ぶりの胸を見下ろすのだった。
「その点、翠は細身で腰もくびれていて羨ましいわ」
「それは同感です。あの華奢な感じは私にはどう足掻いても出せないものですから」
二人の関心と視線が、今度は翠へと向けられる。
「……無いものねだりはお互い様ですよ、お姉さん方?」
翠がポツリと漏らしたその言葉に、楽毅達はハッと気づいたように興奮を収めるのだった。
「そうよねェ……。あれこれ言ったところで結局無いものねだりなのよね」
楽毅は、以前にも齋和から同じ様な事を言われたのを思い出した。その時もやはり体型の話題であった。
「ねえ、楽間。アナタはこの中で誰の体型が一番好み……って、あら?」
少し離れた壁際で背中を向けている楽間を見て、楽毅は首を傾げた。
「ねえ、楽間。そんなところで壁なんか見てないでこっちにいらっしゃい」
「ぼ、ボクはここで結構です!」
楽毅の呼びかけにも背を向けたまま振り向かない。元々彼は姉達と一緒の入浴を拒んでいたが、楽毅にムリヤリ引っぱって来られたのだ。
「もう、恥ずかしがっちゃって。前はわたしと毎日お風呂に入っていたのに……」
「お姉様がいらっしゃらない間は私がご一緒しておりました。ですが、すぐにお一人で入られるようになったのです」
「これも成長かしら?」
「これも成長です」
二人の会話を背中越しに聞いていた楽間は、ついに耐えきれなくなって勢い良く立ち上がり、
「そうです! ボクはもう大人になったんですッ‼︎」
ようやく姉達の方を向いて力いっぱい主張する。
「た……確かに大人だわ」
「ご、ご立派になられて……」
楽毅と楽乗の目が自然にとある一部分に向き、思わず顔を赤らめ感嘆を漏らす。
「こ、これは違うんですッ!」
その視線の先に気づいた楽間は慌てて体をすぼめ、湯船に身を沈めて再び背中を向ける。
楽毅と楽乗は顔を見合わせて苦笑した。
そして楽毅は彼の背後に歩み寄ると、その肩にスルリと手を回し、
「ねぇ、楽間。みんなで背中を流し合いましょう?」
耳元でそう囁いた。
「ぼ、ボクはいいです。もう上がりますから!」
慌てて立ち上ろうとする楽間。楽毅はそれを上から押さえこむ様な形で、
「楽乗さんもおっしゃってくださったけど、今日だけはあの頃の様に甘えて欲しいの……」
憂いを帯びた声色で語りかける。
「姉上……」
始めは抜け出そうとジタバタ抵抗していた楽間だったが、それを聞いて思い留まった。
楽間とて、以前と変わらず姉を敬愛している。
彼女が臨淄へ留学した時は笑顔でそれを見送ったが、本当はその後部屋で一人泣いていたのだ。数日の間は寂しさから食事もほとんど喉を通らなかった。しかしいつの日か、姉に甘えてばかりではいけない、という自覚が芽生えると父から勉学を学び、楽乗から武術を教わるようになった。
楽毅が臨淄で齋和と出逢って生まれ変わったのと同様に、楽間も絶対的存在である姉と離れた事で変化を求めたのだ。だから本当は、独り立ちした自分の姿を見せて姉を安心させたいと思っていた。
しかし、背中に当たる柔らかな感触が、しなやかな腕の温もりが、すぐ側から漏れ出す熱い吐息が、以前の甘えん坊な少年を呼び覚ますのだった。
「……分かりました」
遂には楽間折れた。
こうして四人は楽毅の意向でお互いの背中を流し合った。
洗い場で背の低い順に──楽間、翠、楽毅、楽乗の順に縦に並んで座り、前の人の背中を布で洗う。それが終わると向きを変え、また前の人の背中を洗う。
「……あの、翠さん。ボク、新しいお姉さんが増えたようでうれしいです」
翠の小さな背中を流しながら、楽間がはにかみながら言う。
「私も……かわいい弟が出来たみたいでうれしいわ」
翠は振り返り、笑顔で応えた。
──うまくやっていけそうね。
そんな二人の会話を聞いて、楽毅は家族が増えた喜びを改めて感じるのだった。
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