七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
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第3話 わたし、帰りますから

公開日時: 2020年12月11日(金) 19:20
更新日時: 2020年12月28日(月) 20:36
文字数:2,540

「お姉様。楽毅がくきお姉様!」


 帰国を翌日に控えた夕方、臨淄りんしの大路を歩いていた楽毅がくきは背後から突然何者かに呼びかけられた。

 聞き覚えのある凛とした張りのある声。それはどこか懐かしさを感じさせるものであった。


「……楽乗がくじょうさん?」


 振り返った先に佇む長身の少女の姿を見て、楽毅がくきは驚きと共に呟いた。

 楽乗がくじょうと呼ばれた少女は、はい、と満面の笑みを浮かべて大きな声で答え、楽毅がくきの元へと駆け寄った。


「お懐かしゅうございます、お姉様!」

「まだたった一年ちょっとではありませんか。でも、お元気そうで何よりです、楽乗がくじょうさん」


 楽毅がくき従妹いとこ中山国ちゅうざんこくにおける唯一の友人の来訪に、楽毅がくきの顔はほころんだ。

 しかし、その一方で彼女の来訪の真意を察すると、少々複雑な思いになる。

 楽乗がくじょうの方も当然中山国ちゅうざんこくからはるばる外遊に来た訳では無く、楽毅がくきに本題を切り出す機会タイミングを見定めている様であった。


「立ち話もなんなので、そこの食堂に入りませんか? ちょうど夕食を食べるところだったんです」

「喜んでご同席させていただきます」


 ひとつ年上である楽毅がくきを姉と呼び敬愛してやまない楽乗がくじょうは、うやうやしく返事をし、後に続いた。



 ちょうど夕食時とあって、店内は兵士や商人、稷下しょくかの学士達が腹を満たそうと食を摂っており、ほぼ満席の状態であった。

 二人はかろうじて空いていた奥の壁際の席に腰を下ろした。


 あちこちから話し声がやかましいくらいに耳に届くが、話題の中心はやはりちょう軍の動向と、ひと月ほど前に崩御ほうぎょしたしん武王ぶおうの事で持ちきりであった。



 しん武王ぶおう──彼は常日頃から自らの肉体を鍛え上げる事に情熱を注ぎ、ついには国で五本の指に入るほどの筋骨隆々マッチョになった。そんな彼が、自らの怪力を誇示せんと持ち上げた巨大なかなえを支えきれず、押し潰されて圧死してしまったのは皮肉な話であった。


 若き王の急逝きゅうせいに、しんはしばらくの間混乱を免れないだろう、と楽毅がくきは思った。



 二人は、中山国ちゅうざんこくではあまり食べられない海の食材をふんだんに盛りこんだ料理を注文し、舌鼓を打つ。


「こんなおいしい食材を豊富に抱える国と、なぜいがみ合わなければならないのでしょうか……?」


 食事を終えると、楽毅がくきはポツリとつぶやいた。

 楽乗がくじょうは何も答えられなかった。


「……楽乗がくじょうさん。懐に大事そうに抱えている包みの中身、留学延長の為の資金ではありませんか?」


 楽乗がくじょうは、ギョッと目をいた。

 楽毅がくきの推測は当たっていたようで、彼女はほうけた顔でコクリとうなずいた。


「ではお姉様は、私がこちらに参った目的をすでにお見通しなのですか?」


 楽毅がくきはその問いに直接答える事は無く、


「……父はわたしを帰国させたくないのですね?」


 と、さみしげな笑みを浮かべてつぶやく。


「もうすでにちょう軍による中山国ちゅうざんこく遠征のしらせは耳にされているとは思っておりましたが、よもや伯父おじ上の真意をこうもあっさり見抜かれるとは思いも寄りませんでした」


 楽乗がくじょうは心から感服した。

 楽乗がくじょうの知る中山国にいた頃の楽毅がくきはとにかく物静かで奥ゆかしく、どこかはかなげな印象があった。それが今ではどうだろう。外見的な美しさはさらに磨きがかかり、控えめなばかりであった所作には気品と自信がみなぎっているではないか。


 ──臨淄りんしというこの大きなまちは、人をも大きく変えるものなのだろうか。


 楽乗がくじょう義姉あねの成長を誇らしく思うと同時に、いつも自分の後ろについて歩いていたか弱き少女では無いのだ、という一抹のさみしさを感じるのだった。


「お姉様のおっしゃる通り、ここには三年分の学費と諸経費があります」


 そう言って懐をポンと叩く楽乗がくじょう。それは言い換えれば、あと三年は中山国ちゅうざんこくから離れていろ、という父からの命でもあった。

 娘を死地におもむかせたくない、という親心か。はたまた、うとんじている娘を近づけたくない意向か。


 どちらにせよ──


「わたしはすでに稷門しょくもんを除籍いたしました。明日、中山国ちゅうざんこくに帰る所存です」


 たとえ父から愛されていないとしても、家族が──国が危機にさらされている中で自分だけが戦火を逃れ、ぬくぬくと安全の中に生きる事など到底出来ないのだ。

 正直、父に対しては憎しみにも似たわだかまりがある。中山国ちゅうざんこくという国も、これまで彼女に安らぎをもたらす事は無かった。

 しかし、それでも護りたいと思った。

 だから戦うのだ。


「なりません!」


 楽乗がくじょうは、くわっ、と立ち上がり、テーブルを叩いて叫んだ。楽毅がくきの父から“必ず”と言われてこの使命を託された彼女としては、当然引き下がる訳にはいかなかった。


 周囲の者は驚き、一様に彼女達の方へと視線を向ける。

 しかし楽毅がくき飄々ひょうひょうとした所作で楽乗がくじょうの顔を見上げ、


「楽家はいずれ弟が継ぎます。しかし、彼はまだ幼い。万が一、父が戦でたおれるような事があった場合には、わたしが弟の補佐をせねばなりませぬ」


 静かな口調でそう言うのだった。


「ですが……いくら兵法を学んだとはいえ、お姉様は戦は未経験。あまりに危険過ぎます」

「戦が未経験なのは楽乗がくじょうさん、アナタも同じではなくて?」

「それはそうですが……でもやはり、お姉様を危険にさらすワケには──」

「わたし、帰りますから」


 楽乗がくじょうの必死の説得を制するように、楽毅がくきはそのあおい瞳で彼女をジッと凝望ぎょうぼうし、改めて自分の意思を伝えた。

 その堅固な決意のこもった眼差しに、楽乗がくじょうは返す言葉を見失い、観念したように着席した。


「はぁ……お姉様はいつからそのような強情になられたのでしょう」


 ひとつ嘆息を漏らし、


「わかりました。共に中山国ちゅうざんこくへ帰国しましょう」


 ついに楽乗がくじょうは折れるのだった。


「ありがとうございます、楽乗がくじょうさん!」


 パッと花が咲いたような満面の笑みで、楽毅がくき楽乗がくじょうの大きな手を力強く握る。

 楽乗がくじょうの顔が、熟した果実のように赤く染まっていった。


「そのかわり、戦場では常に私がお側に控えさせていただきます」

「はい。『戦姫いくさひめ』にお護りいただけるなんて光栄ですわ」

「出来ればそのあだ名は避けたい所なのですが……」


 楽乗がくじょうは女性でありながら五十きん──三十キログラムもある重厚なげきを軽々と振り回すほどの怪力の持ち主であり、中山国ちゅうざんこくでは『戦姫いくさひめ』と呼ばれる事が多い。しかし、実際に戦場に立った経験も無いのにそう呼ばれてしまう事に楽乗がくじょう自身は面映おもはゆさを感じていたのだ。


「この命に替えましても、お姉様をお護りいたす所存です!」


 しかし、これからはその名に恥じぬ戦いぶりで敬愛する姉を護ろうと、彼女は決意を新たにするのだった。

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