「お姉様。楽毅お姉様!」
帰国を翌日に控えた夕方、臨淄の大路を歩いていた楽毅は背後から突然何者かに呼びかけられた。
聞き覚えのある凛とした張りのある声。それはどこか懐かしさを感じさせるものであった。
「……楽乗さん?」
振り返った先に佇む長身の少女の姿を見て、楽毅は驚きと共に呟いた。
楽乗と呼ばれた少女は、はい、と満面の笑みを浮かべて大きな声で答え、楽毅の元へと駆け寄った。
「お懐かしゅうございます、お姉様!」
「まだたった一年ちょっとではありませんか。でも、お元気そうで何よりです、楽乗さん」
楽毅の従妹で中山国における唯一の友人の来訪に、楽毅の顔はほころんだ。
しかし、その一方で彼女の来訪の真意を察すると、少々複雑な思いになる。
楽乗の方も当然中山国からはるばる外遊に来た訳では無く、楽毅に本題を切り出す機会を見定めている様であった。
「立ち話もなんなので、そこの食堂に入りませんか? ちょうど夕食を食べるところだったんです」
「喜んでご同席させていただきます」
ひとつ年上である楽毅を姉と呼び敬愛してやまない楽乗は、うやうやしく返事をし、後に続いた。
ちょうど夕食時とあって、店内は兵士や商人、稷下の学士達が腹を満たそうと食を摂っており、ほぼ満席の状態であった。
二人はかろうじて空いていた奥の壁際の席に腰を下ろした。
あちこちから話し声がやかましいくらいに耳に届くが、話題の中心はやはり趙軍の動向と、ひと月ほど前に崩御した秦の武王の事で持ちきりであった。
秦の武王──彼は常日頃から自らの肉体を鍛え上げる事に情熱を注ぎ、ついには国で五本の指に入るほどの筋骨隆々になった。そんな彼が、自らの怪力を誇示せんと持ち上げた巨大な鼎を支えきれず、押し潰されて圧死してしまったのは皮肉な話であった。
若き王の急逝に、秦はしばらくの間混乱を免れないだろう、と楽毅は思った。
二人は、中山国ではあまり食べられない海の食材をふんだんに盛りこんだ料理を注文し、舌鼓を打つ。
「こんなおいしい食材を豊富に抱える国と、なぜいがみ合わなければならないのでしょうか……?」
食事を終えると、楽毅はポツリと呟いた。
楽乗は何も答えられなかった。
「……楽乗さん。懐に大事そうに抱えている包みの中身、留学延長の為の資金ではありませんか?」
楽乗は、ギョッと目を剥いた。
楽毅の推測は当たっていたようで、彼女は惚けた顔でコクリとうなずいた。
「ではお姉様は、私がこちらに参った目的をすでにお見通しなのですか?」
楽毅はその問いに直接答える事は無く、
「……父はわたしを帰国させたくないのですね?」
と、さみしげな笑みを浮かべて呟く。
「もうすでに趙軍による中山国遠征の報は耳にされているとは思っておりましたが、よもや伯父上の真意をこうもあっさり見抜かれるとは思いも寄りませんでした」
楽乗は心から感服した。
楽乗の知る中山国にいた頃の楽毅はとにかく物静かで奥ゆかしく、どこか儚げな印象があった。それが今ではどうだろう。外見的な美しさはさらに磨きがかかり、控えめなばかりであった所作には気品と自信がみなぎっているではないか。
──臨淄というこの大きな邑は、人をも大きく変えるものなのだろうか。
楽乗は義姉の成長を誇らしく思うと同時に、いつも自分の後ろについて歩いていたか弱き少女では無いのだ、という一抹のさみしさを感じるのだった。
「お姉様のおっしゃる通り、ここには三年分の学費と諸経費があります」
そう言って懐をポンと叩く楽乗。それは言い換えれば、あと三年は中山国から離れていろ、という父からの命でもあった。
娘を死地に赴かせたくない、という親心か。はたまた、疎んじている娘を近づけたくない意向か。
どちらにせよ──
「わたしはすでに稷門を除籍いたしました。明日、中山国に帰る所存です」
たとえ父から愛されていないとしても、家族が──国が危機にさらされている中で自分だけが戦火を逃れ、ぬくぬくと安全の中に生きる事など到底出来ないのだ。
正直、父に対しては憎しみにも似たわだかまりがある。中山国という国も、これまで彼女に安らぎをもたらす事は無かった。
しかし、それでも護りたいと思った。
だから戦うのだ。
「なりません!」
楽乗は、くわっ、と立ち上がり、卓を叩いて叫んだ。楽毅の父から“必ず”と言われてこの使命を託された彼女としては、当然引き下がる訳にはいかなかった。
周囲の者は驚き、一様に彼女達の方へと視線を向ける。
しかし楽毅は飄々とした所作で楽乗の顔を見上げ、
「楽家はいずれ弟が継ぎます。しかし、彼はまだ幼い。万が一、父が戦で斃れるような事があった場合には、わたしが弟の補佐をせねばなりませぬ」
静かな口調でそう言うのだった。
「ですが……いくら兵法を学んだとはいえ、お姉様は戦は未経験。あまりに危険過ぎます」
「戦が未経験なのは楽乗さん、アナタも同じではなくて?」
「それはそうですが……でもやはり、お姉様を危険にさらすワケには──」
「わたし、帰りますから」
楽乗の必死の説得を制するように、楽毅はその碧い瞳で彼女をジッと凝望し、改めて自分の意思を伝えた。
その堅固な決意のこもった眼差しに、楽乗は返す言葉を見失い、観念したように着席した。
「はぁ……お姉様はいつからそのような強情になられたのでしょう」
ひとつ嘆息を漏らし、
「わかりました。共に中山国へ帰国しましょう」
ついに楽乗は折れるのだった。
「ありがとうございます、楽乗さん!」
パッと花が咲いたような満面の笑みで、楽毅は楽乗の大きな手を力強く握る。
楽乗の顔が、熟した果実のように赤く染まっていった。
「そのかわり、戦場では常に私がお側に控えさせていただきます」
「はい。『戦姫』にお護りいただけるなんて光栄ですわ」
「出来ればそのあだ名は避けたい所なのですが……」
楽乗は女性でありながら五十斤──三十キログラムもある重厚な戟を軽々と振り回すほどの怪力の持ち主であり、中山国では『戦姫』と呼ばれる事が多い。しかし、実際に戦場に立った経験も無いのにそう呼ばれてしまう事に楽乗自身は面映ゆさを感じていたのだ。
「この命に替えましても、お姉様をお護りいたす所存です!」
しかし、これからはその名に恥じぬ戦いぶりで敬愛する姉を護ろうと、彼女は決意を新たにするのだった。
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