少しずつ秋が深まりゆき、邯鄲の街も季節の香と共に涼しさが増してゆく。
ここしばらく趙国では戦らしい戦もなく、人々は久しぶりに訪れた平穏な時を謳歌していた。
しかし、それでも誰もが気づいていた。
それが仮初めの安息であることを。
獰猛な獣の如く野心家である武霊王のことだ。きっと今ごろは丹念に爪を研いで、次なる獲物を狩るための算段を企てているのだろう、と。
だからそこに暮らす民たちは束の間の安らぎを楽しみながらも、心の中ではどこか冷めた感情をいだき続けているのだ。
邯鄲の大通りから大きく離れた区画にある、一軒の小さな家。かつて楽毅たちが住んでいたその場所を今も変わらず手入れしている老人・李翁も、武霊王に対して冷めた感情をいだいているひとりである。
「清掃終了致しました」
精悍な顔立ちと大人顔負けの立派な体躯を誇る少年がその家の中から現れ、軒先に立つ李翁に告げる。
「ご苦労だった、李同」
李翁は孫である李同に労いの言葉を向けると、再びその家を見上げながらしみじみとつぶやいた。
「楽毅様たちがここを発たれてからまだ一週間だというのに、まるで遠い昔のことのように感じてしまうのう……」
「……そうですね。短い期間でしたが、あの方々と過ごした日々がそれだけ充実していたということでしょう」
精悍な少年・李同も祖父に倣って思い出の家を見上げ、当時のことを思い返す。
「もう、楽毅様がここに住むことは無いだろう。しかしな、いつの日か再びここを訪れてくれる。そんな気がしてならないのだ。おかしいと思うか?」
老人のひとりごとのようなその問いに、李同は小さくかぶりを振って答えた。
「またここを訪れてくれる。そう信じているから私もこうして毎日清掃し、いつでもお迎え出来るよう整えているのです」
「そうか……」
老人は満足そうに微笑むと、さらに上へと目を向ける。
天はどんよりとした灰色に覆われ、天候が荒れるのか回復するのか判じ得ない。
まるで今の趙の情勢を顕現しているようだ、と李翁は思った。
「楽毅様たちがこちらにいらした時から数えればたったひと月ではあるが、趙はいろいろと変わりつつある……」
ポツリとつぶやく老人。
その横で少年は小さくうなずき、同じように曇天を見上げるのだった。
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