翌日──
秦への偵察活動を決意した武霊王は、すでに寝室にて調達させた商人風の着物をまとって変装し、出立の準備を終えようとしていた。
──まあ、これなら目立つことはあるまい。
姿見に映るその男の様相は、たしかに商人にしてはやたらと筋骨隆々で勇壮な印象ではあるが、普段から愛用している虎皮の衣に比べれば充分に地味ではある。
──そういえば、肥義が待っていろと言っていたが……。
昨日彼が慌てて去って以来、まだその姿を見ていない。
しかし、決断したら即実行が信条の武霊王はこれ以上待つことは出来ない。そもそも、肥義が再び説得に訪れたとして、彼の決意が覆ることなど無いのだ。
──では行くか。
姿見の前で踵を返したその時であった。
「主父、失礼致しますぞ!」
力強い声と共に白髪の老人が矍鑠とした足取りで部屋の中にやって来る。その背後には、息子である趙何と娘である趙勝姫の姿もあった。
「来たか、肥義。しかし、趙何や勝姫に引き留めさせようとしても俺の決意は変わらんぞ」
壁に掛けられた剣を腰に携え、卓上に置かれた紫紺色の宝珠──【八紘の宝珠】を首に掛け、武霊王は悠然と歩み出す。
「今さら引き留めなど致しませぬ」
と肥義。
ほう、と漏らして武霊王は歩みを止める。
「父上はズルいです。ひとりで秦に行こうだなんて。私だって行きたいのに!」
趙勝姫が不満顔でそうぶつけると、
「いや、別に旅行に行く訳では無いのだが……」
武霊王は思わず苦笑する。
「父上。せめて護衛だけはつけていただきたく、今日はうってつけの者を連れて参りました」
趙何がそう伝えると、
「ほう、この俺を護ろうというのか? それはよほどの豪傑なのだろうな」
武霊王は不敵な笑みを浮かべる。
「それはご自身の目でおたしかめください」
趙何は逆に挑戦的な言葉で返す。
おもしろい、と言って武霊王はいったん側にある椅子に腰を下ろす。
「入って来て良いわよ!」
趙勝姫が部屋の出入り口に向けて呼びかける。
どれほどの大男がやって来るのか、と武霊王は腕組みをして待ち構える。
「はぁ〜〜〜い!」
しかし、それは緊迫感の欠片も無い間延びした声で、しかもどう考えてもそれは女性の──まだ年端も行かない少女のものであった。
思わず怪訝そうに首をかしげる武霊王。
「失礼しますぅ」
そう言って現れたのは、髪を左右でお団子状に結わいた、年齢はせいぜい十代前半くらいの小柄な少女であった。
「……肥義よ」
「ははっ!」
「ついに耄碌したか?」
「ええッ⁉︎」
感情の無い低い声で老宰相を睨めつけると、武霊王は椅子を跳ね飛ばしながら勢い良く立ち上がり、
「これの一体どこが豪傑なのだ? どこをどう見てもただの娘ではないか⁉︎」
雷鳴の如く雄々しき怒号で問い質す。
「た、たしかに見てくれはこのとおりただの娘でございます。しかし、こう見えてかの者は五十斤はあろうかという大岩をくくりつけた槌を軽々と振り回すほどの怪力の持ち主なのです!」
叱責を受け、必死に弁明する肥義。
「爺やの言ってることは本当ですよ、父上」
「私もこの目でたしかめるまでは半信半疑でしたが、彼女は本当に豪傑と呼べる人物なのです」
助け舟を出すように趙勝姫と趙何が証言する。
「この娘が豪傑だと?」
それを受けてまじまじと少女を見定める武霊王。しかし、穴が空くまで眺めてみても、体つきも至って普通の小柄で愛らしい少女にしか見えず、そんなとてつもない膂力を秘めているとは到底信じ難かった
そして当の本人は、覇王の鋭い眼光を浴びているにも関わらず、少し照れ臭そうにはにかむのだった。
──ん? この娘、どこかで見たことがあるぞ。
刹那、そんな風に感じた武霊王はその記憶を辿ってゆく。
──そうか、先の中山国との戦で楽毅の奇襲を受けた時、俺の周囲で敵兵を食い止めていた娘か⁉︎
わずかな記憶の中にある顔と目の前にある顔が合致して、武霊王は思わず大きく目を瞠く。
「コイツは私の幼馴染みで廉頗って言うんだけど、腕っぷしだけは保証できるからきっと護衛にうってつけだと思います」
趙勝姫がそう補足すると、
「ちょっと姫ちゃん⁉︎ コイツ呼ばわりはヒドいですぅ〜!」
心外だとばかりにお団子頭の少女──廉頗が頬を目一杯膨らませる。
──なるほど。たしかにこの娘ならば足手まといにはならぬな。
かつて楽毅率いる中山軍の奇襲を受けた時、武霊王は楽毅との一騎討ちを繰り広げ、同じ宝珠の所有者として満足の得られる戦いが出来た。しかし、もしも廉頗が他の敵兵を足止めしていなければ、きっと彼は一騎討ちに集中出来なかっただろう。
この娘には借りがある──
そう感じた武霊王は、
「たしか廉頗と言ったか。お前の今の階級は?」
そう問う。
「え? アタシですかぁ? アタシはただの一兵卒ですぅ」
急に問われて戸惑いながらも、はつらつと答える。
「よし、ならばお前は今日から百人将だ。一時間やる。出立の準備をしてもう一度ここに来い!」
武霊王は微笑と共に高らかに告げると、倒れた椅子を拾い上げてそこにどっかと腰を下ろす。
「は、はいですぅ‼︎」
護衛として認められ、ついでに出世までした廉頗はうれしそうに返答する。
その光景を見て、趙勝姫たちはホッと胸を撫で下ろすのだった。
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