「さすがに趙軍は攻め方を変えてくるでしょう。警戒を怠らないでください」
前日の快勝がありながら、楽毅は気を緩める事無く兵士達にそう喚起を促した。
戦いはまだ始まったばかりだ。それに、これだけ失態が続けば、武霊王も息子と言えども将としての任に耐えられない趙章に何らかの沙汰を下す可能性もある。
──もしも趙与が指揮を執る事になれば、今までの様にはいかないわ。
やがてこの懸念は現実のものとなった──
趙軍の将が趙与に交代したという密偵からの報告が入ると共に、敵の攻撃に明らかな変化が見られるようになったのだ。
壕を少しずつ丹念に潰しながら、一方では地中深く掘り進めて塞の下まで穴を通そうとしていた。そのような地道な活動を見せたかと思えば、雲梯や衝車を用いて砦をよじ登ろうと力押しする事もあった。しかし、中山軍が防戦するとすぐに引き上げ、しばらくするとまた攻撃してくるという繰り返しであった。
明らかに見せかけだけの攻撃であった。しかし、それが中山軍を油断させる為の策かもしれない、と楽毅は常に警戒を密にしてこれに臨んだ。
すると、そんな攻防が十日以上も繰り広げられた頃には中山軍に明らかな疲労の色が見え始めた。
──さすがは趙与だわ。実にいやらしい戦いをする。
武器を掲げたまま座りこむ者達、立ったまま束の間に微睡む者達を眺めながら、楽毅は心の中で密かに敵将を賞賛した。
この十数日の間に趙軍の夜襲は無かったが、中山軍に油断やほころびが見え始めた時に猛獣の如く鋭い牙で一気にトドメを刺しに来るかも知れないので、ひと時たりとも安心は出来なかった。
しかし、趙与としてもここで時間を費やすのは得策ではなく、一刻も早く霊寿に至らなければならないはずなのだ。
──これはわたしと趙与の根比べだわ。
楽毅はこの戦いをそう認識し、疲労困憊の兵士達を激励して回った。
しかし、それからまた十日後、楽毅は砦内で一つの異変に気づいた。
いつも川から並々と流れこんでくる水の量が、明らかに減っていたのだ。
──最近雨が降らなかったから川の水量が減っているんだわ。
仮に川からの恩恵が枯渇したとしても、砦内には水の備蓄は充分にあった。さすがにそれが尽きる前にはまとまった雨が降るだろう。
楽毅はそう考え、貯水池を後にした。
それから更に数日後。この日は久し振りのまとまった雨が朝から降り続いていた。
「お姉様、こちらにいらしたのですか」
楽乗がやって来て、砦内を点検して回っていた楽毅を呼び止めた。
「どうかしましたか、楽乗さん?」
「はい。今朝、山菜を取りに裏の山に出た兵士がちょっと気になる物を見つけまして──」
楽乗はそういって、手に持っていた物を差し出した。
それは、麻を縫い合わせて作られた袋であった。
まだ真新しいものであったが、木の枝か何かに引っ掛けたのか、袋の側面は大きく裂けて使い物にならなくなっていた。
「これは……麻の袋ですね。こんな物がなぜ山中に?」
気になった楽毅が袋の中を調べてみると、袋の内側には赤みがかった土が満遍なく付着していた。
──これは山中の土とは違う。一体どこの……ッ!
何かに気づいた楽毅は、ハッと顔を上げ、そして焦燥を含んだ口調で楽乗に告げた。
「すぐに全ての兵士を裏山に移動させてください! すぐにです‼︎」
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