七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
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第4章 遥かなる帰路

第1話 とんでもない高値を付けていただきました

公開日時: 2020年12月30日(水) 19:08
文字数:2,065

 臨淄りんしを発ってから十日後──


 楽毅がくき楽乗がくじょうせいを縦走する済水せいすいという大河を越えた。

 それから二日後には霊丘れいきゅうというまちに至り、その二日後にはちょう国内、さらにその五日後には黄河を跨ぎ、ついにちょうの国都・邯鄲かんたんへと至った。


ちょう軍は連戦連勝で、今は東垣とうえんまちを攻めているらしい」


 邯鄲かんたんの街でしきりにささやかれる噂話を耳にした楽乗がくじょうは、怒りで目を血走らせた。


「なんと不甲斐無い。東垣とうえんが落ちればもう霊寿れいじゅは目の前なのにッ!」


 しかし、楽毅がくきはそんな苛立ちを意に介さず、


「それよりも何か食べましょう。わたし、お腹がペコペコです」


 と、食堂を指差しながら言うのだった。


「しかし、お姉さ──」


 その時、力んだ楽乗がくじょうのお腹が、ぐぅ、と何とも気の抜けた情けない音を奏でる。


「ね?」


 さすがに何も言い返すことが出来ず、楽乗がくじょうは真っ赤に染まった顔でコクリとうなずくのだった。




「さて、どうやって霊寿れいじゅまで戻りましょう?」


 食事の席で楽乗がくじょうが問う。


 中山国ちゅうざんこく内はもうちょう兵で満ちているはずであり、戦地の只中を、それもちょう軍に怪しまれること無く突破しなければならないのだ。


「このような非常時でも通過出来る者はおります。お土産を持って霊寿れいじゅに帰りましょう」


 楽毅がくきはあっけらかんと答え、食事代を置いて席を発った。

 楽乗がくじょうは慌ててその後を追った。



 せい臨淄りんしには及ばないまでも、この邯鄲かんたんというまちは中華大陸屈指の繁華を誇り、その華やかさと喧騒ぶりには目を見張るものがあった。


 楽毅がくき邯鄲かんたんの大通りに入ると、何かを物色するように無数に立ち並ぶ市を丹念に見て廻る。

 ふと、その足が一軒の露店の前で止まる。そこは武器商人の店であった。


「ご主人。そこに並んでいるのは楚鉄そてつですか?」


 楽毅がくきは木箱にみっしりと納まった白色の塊を指差してたずねる。


「……いかにも。正真正銘、の国から取り寄せた上質の銑鉄せんてつでございますよ」


 椅子に腰かけたままうつむいているひとりの若い男が彼女を一瞥いちべつし、低くこごった声で答える。

 猫背で醜男ぶおとこだが、服越しからでも極限まで鍛え上げられた膂力りょりょくがくっきりと浮かび上がる。


 ──齋和さいかの屋敷でわたし達を案内してくれた方に雰囲気が似ているわね。


 と、楽毅がくきはふと思った。


「この楚鉄そてつ、どれ程ありますか?」

「全部で十箱、ございます」


 箱をポンと叩き、男は力強く答える。

 楽毅がくきは展示されている他の商品もじっと見回してから、


「では、楚鉄そてつをあるだけ全て売っていただけませんか?」


 男にそう告げた。


 これには商人の男よりも楽乗がくじょうの方が驚いた。

 はともかくとして、鉄をそんなに買いこんで何に使うのか。いや、それ以前にお金が無い。正確には無い訳ではないが、今手持ちにあるのは楽毅がくきの為にと彼女の父が渡してくれた学費など、合計五十金程である。

 クズ鉄ならともかく、“鉄といえば楚鉄そてつ”と称されるほどの一級品である。どう考えても桁がひとつ違うのだ。


「もちろん、お売りできます。ただ、わたくしはいつも一番高額の値を付けてくださった方にお売りしておりまして、すでに貴族の方などから多数のご入札がございます。さて、貴女はいくらの値を付けてくださいますか?」


 男は浅黒く日焼けした頬をさすりながら、まるで試すように問う。


「そうですね……。わたしが出せるのはこれくらいでしょうか」


 楽毅がくきは懐から巾着袋と一枚の竹札を取り出し、男に差し出した。


 男がそれを受け取る。

 そして孟嘗君もうしょうくんこと田文姫でんぶんきの名と桃の印が刻まれた竹札をしばらく注視して、


「……なるほど。これはとんでもない高値を付けていただきました」


 ニヤリと口元を歪ませ、


「かしこまりました。この値で貴女にお売り致しましょう」


 そう言って拱手こうしゅを向けた。


「ありがとうございます」


 礼を返す楽毅がくき


「それで、今日中に出立したいのですが……」

「かしこまりました。どちらまで運べばよろしいのでしょうか?」

「……中山国ちゅうざんこくまで」


 その言葉に男はハッと息を呑むが、すぐに笑みをこぼし、


「なるほど。貴女はわたくしよりもあきないが上手でございますな」


 そう言って立ち上がった。


「すぐに馬車と従者と、それに旅費も用意させましょう」

「ありがたい事でございます。しかし……なぜ、わたしのごとくただの娘にそこまで良くしてくださるのですか?」


 孟嘗君もうしょうくんの威光にすがり、それが実った結果だが、あまりにもうまく事が運び過ぎると感じた楽毅がくきは逆にその不審をたずねる。


「わたくしは孟嘗君もうしょうくんとは直接の面識がございませんゆえ、かの者が噂通りの御仁であらせられるかは判じ得ません。ですが、その養父であらせられる伯翁はくおうはわたくしに商売人としての道を示してくださった大恩人です。そうしたえにしから、わたくしは貴女を信頼するのです」


 えにし──

 まさに人と人との繋がりが楽毅がくきに味方した瞬間であった。


えにしの糸が歴史を紡ぐ』


 齋和さいかれいも、そう言っていた。


 その言葉の重みをまざまざと実感した楽毅がくきは、


「ご厚意、感謝致します」


 もう一度深々と礼を向けるのだった。


「わたしは楽毅がくきと申します。どうか、アナタの名をお聞かせ願えませんか?」

「わたくしは楊星軍ようせいぐんよう商会のリーダーでございます」


 ようと名乗った男は、うやうやしく拝礼する。


 ふわり、とひるがえった袖の真ん中には、太極図たいきょくずが描かれていた。

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