その日の内に邯鄲を発った武霊王と廉頗は馬を駆り、西の方角へと邁進する。目指す先は西の大国・秦の国都である咸陽。
敵の中枢へ乗りこみ、あまつさえその国王に不意打ちのような形で逢おうというのだ。そのために二人は目立たぬよう甲冑の類はまとわず、商人風の簡素な衣服をまとっていた。
──あれぇ、おかしいなぁ?
武霊王の後ろを影のようについてゆく廉頗であったが、日が経つにつれてひとつの疑問をいだきはじめ、出立から三日ほど経過したころにそれを問うた。
「すみません、主父! 函谷関からずいぶんと外れてるように思うんですけど、路合ってるんでしょうかぁ〜⁉︎」
彼女が疑問に思うのも無理もない。
通常、秦の国都である咸陽に入るには、山間の隘路に築かれた不落の砦・函谷関を通過しなければならない。
しかし、武霊王はそれを無視してひたすら西進し、ちょうど咸陽の北にそびえる険しい山へと入り、そこを突き進んでゆくのだった。
「正規の経路で咸陽に乗りこんでもつまらんだろう。だから相手の虚を衝くのだ。これは俺と秦王との戦だからな」
武霊王は、まるで少年のようないたずらっぽい顔で呵々と笑う。
「抜け道から咸陽に侵入するんですかぁ〜?」
「そうだ。楽しいだろう?」
「そう……ですねぇ」
廉頗とて、強そうな武人を見ると力試しをしたくなり、誰彼構わず勝負を挑む悪癖がある。きっと、それと似たような感情なのだろう、と彼女は理解した。
そして今度は山道をひたすら南下し、二人はついに悠然と佇む街並みと、壮大にそびえる宮廷を眼下に捉える。
「あれが咸陽か。なかなか見事な城だな」
携帯している水袋から呷るように水分を補給しながら、武霊王は不敵な笑みを浮かべて言う。
「お腹が空いたですぅ……」
腹の虫を鳴らして同じように水分を補給しながら、廉頗は情け無い声でそう訴える。
邯鄲を発ってからのべ五日が経過していた。
それまで二人は携帯食と野生の草や木の実などで飢えを凌いでいたが、食べ盛りの廉頗にとってそれは拷問にも等しい艱難辛苦の日々であったろう。
「そうだな。咸陽に入ったらまずは腹ごしらえをするとしよう。好きなだけ食べて良いぞ」
「ホントですかぁ〜? じぁあ、すぐに行きましょう!」
途端に活力を取り戻した廉頗は、武霊王よりも先にさっさと崖を下りはじめる。
「現金なやつだ」
欲望に忠実な少女の後ろ姿を見て、武霊王はやれやれといった体で肩をすくめ、水袋を仕舞うとその後を追った。
秦の国都・咸陽──
渭水と呼ばれる河沿いの地を切り開き築かれたその都市は堅牢な城壁に囲まれ、見る者を圧倒する威圧感を備えている。
趙の国都・邯鄲のような優雅さや、斉の国都・臨淄のような広大さはないものの、他国より遥かに進んだ法治制度を象徴するように、無駄を一切省いた厳格な精密さを感じさせる。
「なるほど、これが咸陽。これが秦か」
石畳が敷き詰められた大路を闊歩しながら、武霊王は感嘆交じりにつぶやいた。
「まさに法の都。法の国。それが街並みにも如実に顕れているな」
かつてこの地に現れた稀代の法家である商鞅は、蛮族と蔑まれたこともあるこの国に法治国家として改革を推し進め、中華大陸一の強国へと押し上げた。
しかし、厳格過ぎたその法はやがて自らをも縛ることとなり、商鞅は結局無惨な最期を遂げている。
「皆が法を遵守し、確固たる秩序が保たれている」
「そうですねぇ。これだけ人がいるのに、街には喧騒も無くてスゴく整然としてます」
武霊王の言葉に廉頗も同調する。
「しかし、国や民を護るための法が行き過ぎれば、それは人の心をも縛る戒めとなる……」
ふと、武霊王はひとりごとのようにつぶやく。
「心を縛る?」
廉頗はキョトンとした顔で首をかしげる。
武霊王はフッと自嘲し、
「おしゃべりがすぎたようだな。早く食事を済ますとしよう」
そう言って近場に軒を連ねる食堂の中へと入ってゆく。
お腹が空いて仕方のなかった廉頗は、すぐにその背中を追った。
「たしかに『好きなだけ食べて良い』とは言ったが……さすがそれだけ消化されると驚きを通り越して、逆に小気味良いな」
食堂の主人が運ぶ食事を涼しい顔でペロリと平らげ、空になった皿を高く積み上げてゆく小柄な少女を眺めながら、武霊王は苦笑と共にもらす。
「アタシ……育ち盛りですからぁ」
大好物の粽を口いっぱいに頬張りながら、廉頗は得意げに言う。
「その割には成長が芳しくないような気もするが……」
「ちょっと、主父! それって性的嫌がらせですよぉ‼︎」
とっさに胸を両手で覆い隠し、不満顔を向けて抗議する。たしかに、彼女の胸は膨らみが乏しく、大人の魅力を備えているとは言い難いものであった。
「俺はそんな的確な部分ではなく、あくまでも全体的なことを指して言ったつもりだったのだがな……」
苦笑する武霊王。
それを聞いた廉頗はごまかすように頭を掻きながら笑い、
「こ、これからですよ。きっとこれから成長します」
そう言って再び粽に手をつけるのだった。
「……お前はおもしろいな」
不意に武霊王がそうもらす。
廉頗は口を動かしながらもキョトンと首をかしげる。
「俺はな、男は外に出て働く者、女は常に男の背中を護り、家族を支える者として見てきた。その図式が一番均衡が取れた最善の在り方だと思ったからだ。だからこそ、俺は孟嘗君のように女でありながら政治の表舞台に立ち、男のように振る舞う者を嫌っていた」
武霊王はそこまで言うと、一拍間を置くようにひとつ深呼吸を入れる。
彼がそういった思考の持ち主であることを趙勝姫から伝え聞いていた廉頗は、特にこれといった感情もいだくことなく、ただコクリとうなずく。
「だが、女でありながら過酷な旅程を平気でこなし、男以上に大飯を食らう者がここにいる。俺はこの数日お前と行動を共にして、認識が大きく変わったよ」
武霊王はそう言うと虚空に目を向け、フッと笑みをもらす。
「アタシだけじゃなくて、姫ちゃんだって楽毅様だって楽乗さんだって、みんなみんなおもしろいですよぉ」
粽を嚥下すると、廉頗は満面の笑みで語った。
「もちろん、主父だって趙何様だってそれぞれが違った個性を持っていてとてもおもしろいですぅ」
「俺が……おもしろい? そうか、おもしろいのか」
まるで自問自答するように、武霊王は少女から向けられたの言葉を繰り返す。
──それが時代の流れだというのなら、俺はそれを受け入れなければなるまい。
かつて慣習に凝り固まった家臣たちに、これからは騎馬主体の戦が主流になると、故服騎射という異民族の形式を取り入れさせた武霊王。
時代の流れに合わせて己自身を変化させられない人間は、いずれ時代の波に淘汰される──
そういった信条を持ち併せていた彼だからこそ、変化を察して柔軟に対応できるのだろう。
そして廉頗はというと、そんな武霊王の心情など知る由も無く、さらなるおかわりを求めて店主を驚愕させるのだった。
そして、ようやく腹が膨らみ満足がいったころ、廉頗はおもむろに口を開いた。
「あのぉ、さっきの話で少し気になったことがあったんですけどぉ」
「どの話だ?」
「『行き過ぎた法は人の心をも縛る』、と主父はおっしゃいました」
「ああ、その話か」
武霊王は軽くうなずくと、悠然と腕組みをする。
「それって、趙にも言えることだと思うんです……」
「ほう……」
少女の言葉に、武霊王の眉がピクリと反応する。
「趙は主父が武の象徴として常に前線に立ち、版図を拡げてゆきました。そのおかげで領土の安全は護られ、民は他国の侵攻に怯えることなく安息の日々を送れております。ですが……」
ここでひとつ間を置いて、廉頗はさらに語り出す。
「それ故に、趙は主父おひとりに完全に依存してしまっているのではないでしょうか?」
ふむ、と武霊王はうなるようにしてつぶやき、
「なるほど。つまり、趙国では俺自身が法であり、俺が民たちの心を縛っているという訳か……」
廉頗の真意を看破し、そう締めくくる。
武霊王の理解の早さに瞠目しながら、廉頗はさらに続けた。
「たしかに主父の存在は頼もしい限りです。でも、その体制がずっと続くとは限らない。もしも、主父の身に万が一のことがあったなら趙はたちまち──」
ここまで言って廉頗は慌てて口を噤み、
「申し訳ございません。縁起でもないことを口走ってしまいました」
神妙な面持ちで頭を下げる。
しかし武霊王は咎めるどころか呵々と笑い、
「おもしろい。やはりお前はおもしろいな、廉頗!」
少女の頭をくしゃ、と撫でる。
突然のことに驚きと戸惑いを隠せない廉頗。
「たしかにそれは俺も懸念していた。もちろん、俺の目の黒い内は他国の好き勝手にはさせない。しかし、俺の跡を継ぐ趙何は甘いところがあるし、家臣も高齢化が進んでいる。だからこそ廉頗。お前のような若い人材がこれからの趙を担ってほしいのだ」
武霊王はそう言って彼女の肩に手を置くと、
「どうか趙何たちを支え、趙国を護ってくれ!」
力強い檄を送る。
「はい!」
廉頗は満面の笑みを浮かべ、高らかに答えた。
武霊王はその言葉に満足そうにうなずく。
「ふう……。なんだか安心したらまたお腹が空いてしまいましたぁ。すみませ〜ん、おかわりお願いします〜ぅ」
そう言って廉頗は、店主に向けて手をブンブンと手を振る。
さすがにもう食べられないだろう、と油断していた店主と武霊王は、少女の無尽蔵な胃袋に驚嘆し、共に苦笑を禁じ得ないのだった。
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