──これが運命だというのなら、わたしは……。
ひとつ深呼吸を入れて落ち着きを取り戻した楽毅は、もう片方の手で武霊王の大きな手をそっと外して、
「ありがとうございます。ですが、わたしが貴方と共に同じ路を歩む事は決してありません」
ほほ笑みを浮かべながらかぶりを振った。
「ほう。俺では役不足だという事か?」
そう言う武霊王の口振りは穏やかだが、その実、目はとても冷ややかであった。
楽毅はもう一度かぶりを振ってから言った。
「貴方は天下を地に求め、孟嘗君は人に求めている。生き方が根本的に違うのです。そしてわたしも孟嘗君を敬愛しながらも、それとは違う生き方を模索している身なのです」
「俺が孟嘗君に勝てぬとでも言うのか?」
「それは分かりません」
「貴様を力づくで俺のものにしてもよいのだぞ?」
「どうぞ、ご自由になさいませ」
武霊王の高圧的な問い攻めを飄々と躱す楽毅。
楽乗達も武霊王の家臣達も、息を呑んで事の成り行きを見守っている。
それからしばらくの間沈黙が続いた後、武霊王は堰を切った様に哄笑し、
「俺の負けだ、楽毅。さっき言った事は全て忘れてくれ」
立ち上がると、元いた場所へと戻り、どっかと椅子に腰かけた。
「フラれた腹いせに女を斬ったとあっては、趙家の名折れだからな。今回は見逃してやる。このまま黙って帰るがよい」
ひらひらと手を振る武霊王。
しかし、その真横から一人の青年が足早に前に踏み出ると、
「お待ちください、父上! その女には苦汁を呑まされた恨みがあります。黙って帰られては私の気が済みませぬ」
粘質を含んだダミ声で、そう訴える。
「趙章、か……」
武霊王は青年を瞥見するや否や無感情な声色で、自分の息子でありいずれは趙王の座を継承するであろう太子の名を、ため息と共に吐き出した。
その青年──趙章は先の戦で楽毅率いる中山軍に完敗し、それが原因で部隊の指揮権を剥奪された経緯がある。気位がやたらと高く、お坊ちゃま気質が抜けないため、楽毅によって自尊心を傷つけられた、という憎しみの念に凝り固まっているのだ。
「ああ、殺したい、殺したい……。八つ裂きにしても飽き足りない。どうか……どうか私にこの女を斬らせてください!」
まるで激情の詩でも吟じるかの様に、武霊王の前で怨嗟をさらけ出す趙章。
「……太子・趙章よ。俺は貴様が王としての資質を身につけられるようにと、経験を積ませる為に一軍を与えた。俺の貴様に対する期待は分かるな?」
「はい。私はその期待を裏切ってしまいました……」
「そうだ。貴様はそこにいる楽毅によって敗北を喫した」
「面目次第もございません」
「負ける事自体は何ら恥じるものでは無い。それも、覇道を志す者には必要な経験だ。だがな──」
武霊王は一度目を伏せ、一拍置いてから、
「戦で受けた屈辱は戦でしか拭えぬのだ。使者として丸腰の状態で面前に現れた者を斬ったところで、それはただの腹いせにしかならぬ。それは軟弱者のする事であって、覇者のすべき事ではない!」
語気鋭く叱咤する。
「は、はい……。しかし、父上」
それでも納得がいかない趙章。
しかし、獣の性をまとった男の鋭い眼光に居すくまり、了解しました、とか細い声で答えると、すごすごと後ろに下がるのだった。
武霊王は息子の頼り無さげな背中を見送ると、ひとつため息を漏らし、
「見苦しいところを見せてしまったな。今のやりとりも出来れば忘れて欲しい」
楽毅達に苦笑を向ける。
「趙章様と交戦したわたしとしては複雑な心境ですが、『戦で受けた屈辱は戦でしか拭えない』、という趙王様のお言葉は、この胸に響きましたわ」
「あれはかなり貴様に入れこんでいるようだからな。まあ、見ての通り出来の悪い男だが、俺はつい甘やかしてしまう。悪いクセだ」
その刹那、武霊王の瞳が憂愁の色を帯びるのを、楽毅は見逃さなかった。子を心配する父親の心情かと思ったが、それとは違うとても悲しげな雰囲気も同時に感じられた。
──何か複雑な事情があるのかしら?
楽毅はふとそう思い、もしかしたらそれが武霊王の弱みなのでは、と推察してみた。
いつの時代も、偉大な王の子が必ずしも偉大になるとは限らない。これまでの歴史を鑑みるに、人の性質というものは血筋ではなく、周囲の環境によって大きく左右されると言っても過言ではないだろう。
楽毅の目から見れば、趙章という男は現在の中山王によく似て傲慢である。とても王の器では無いというのが正直な印象だ。それは恐らく武霊王自身も感じている事であり、大国の王として冷酷に切り捨てる事も出来ず、ひとりの父親としての情との間で板挟みになっているのではないだろうか。
「意外ですわ。天下に名立たる趙王様にもそういう一面がおありだったなんて」
楽毅が忌憚の無い感想を述べれば、
「そうだな。手のかかる子程かわいいのかもしれんな」
武霊王もそう答え、苦笑を漏らした。
「さて、いろいろと要らぬ話をしたな。残念ながら交渉は決裂だ」
武霊王はすぐに真剣な面持ちに戻り、
「覚えておく事だな、楽毅。俺の要求を拒んだという事は、中山国は延命の機会を自ら放棄したという事だ」
すっくと立ち上がり、楽毅を射すくめるように上から見下ろす。
「心得ております」
しかし、楽毅は臆する事無く悠然と返し、立ち上がり、拝礼を残して武霊王に背を向ける。
今は雪が大地を覆い尽くしている為に趙軍は動く事が出来ないが、雪解けと同時に再び中山国に進軍するだろう。
最後の武霊王の鋭い眼光は、次に戦う時はこの前の様にはいかない、と示唆している様に楽毅は感じた。
「失礼致します」
周囲の冷ややかな視線と囂々たる非難を浴びながら、楽毅達は幕舎を後にした。
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