中山国の南方に鄗という地がある。
ほんの数か月前までは趙との国境に面していたこの場所も今は趙の領土に組みこまれ、一面に咲き誇る花の様に天幕と軍旗の群れが白銀の大地を埋め尽くしていた。帥旗と共にこれだけの軍勢が留まっているという事は、この地に武霊王がいるという事に他ならない。
外は、はらはらと粉雪が華のように舞っている。まだ昼時にも関わらず辺りはまるで夕刻のような薄暗い影が差していた。
しんしんと降り積もる雪を一歩一歩踏み固めながら、楽毅と楽乗と翠の三人は威武をいかん無く誇示している趙軍の陣へとやって来た。
三人とも外套を全身に羽織ってはいるが、それでも北方特有の冷気は彼女達を容赦無く呑みこむ。
「いよいよやって来ましたね、お姉様」
緊張のこもった楽乗の言葉に、楽毅は静かにうなずいた。
「ええ。ここまで来たらもう腹を括るしかありません」
「大丈夫です。もしも武霊王がお姉さまに危害を加えようものなら、私が命に代えてもお護り致します」
無骨な甲冑に覆われた自らの胸をドンと叩き、楽乗は力強く言い放つ。その隣りに控える翠も、言葉こそ発しないもののコクリとうなずき同意を示す。
「ありがとうございます。無事に交渉をまとめられるよう最善を尽くしますわ」
二人の忠義に楽毅は笑顔で応えた。
意を決した三人は、趙軍の陣中へと足を踏み入れる。この寒さで趙兵のほとんどは天幕にこもっているようで、簡易で設えた柵の前で見張り番がひとり佇んでいるだけだった。
「警備がひとりとは、ずいぶんとナメられたものですね」
楽乗が怒りを含ませて言うと、
「それだけ自信があるという事なのでしょう」
楽毅は極めて平静な声で返した。
「しかし、あの見張りの者はずいぶんと幼い娘のようです」
翠がそう言うと、楽毅は目を瞬かせながらそちらをジッと見やる。しかし、視力が良くない楽毅には人らしき輪郭がぼんやりと視認できるだけで、見張り番の性別も年の頃も判別がつかなかった。
さらに近づいてみると、警棒らしきものを携えたその見張りの少女は退屈そうに足で雪をこね回していた。
「すみません。中山国から講和の使者として参りました楽毅と申します。趙王にお目通り願います」
翠が携えている使者の白旗を指し示し、楽毅が涼やかな声で伝える。
見張りの少女は大きな目をぱちくりとさせながら楽毅をしばらく凝視する。
「……あの、何かわたしに不審な点がありましたでしょうか?」
穴が開くほど見つめられるのでそう訊ねると、
「……スゴい美人さんですゥ」
少女は頬を赤らめながら心無しかうっとりとした表情で呟いた。
しかし、すぐにハッと我に返ると、
「す、すみません、何でもないですゥ!」
慌ててかぶりを振った。
「中山国の楽毅さんですね。お待ちしておりました」
少女はそう言って手にしていた棒を柵に立てかけ、陣内へと三人を誘う。
天幕にこもっていた趙兵の幾人かが、顔を出して楽毅達に好奇の視線を向けている。
──こんな小さな女の子まで兵士をしているのか。
先導する少女のか細い後ろ姿を見つめながら、楽毅は同じ女性として親近感を抱くと同時に戦国という時代の無情を感じるのだった。
しばらく歩き続けていると、前方に一際大きな幕舎が視界に映りこむ。あの中に武霊王がいるに違いないと、楽毅達は予感をいだいた。
「それでは少々お待ちくださいませ」
案の定、少女はその幕舎の前で三人を留め、ひとり幕内へと入っていった。
緊張を紛らわすように、三人はそろって深呼吸する。
ほど無くして幕の内側から少女が顔を覗かせ、
「お待たせしました。中へどうぞ」
幕布を開放し、人懐こい笑顔で三人を招いた。
──いよいよ武霊王にまみえるのね。
覚悟を決めて楽毅達は足を踏み入れる。
「その前に、みなさんの武器を預からせていただきますゥ」
しかし、すぐに少女ののんびりとした声に呼び止められる。
貴人と面会する際に武器を携帯してはならないのは当然の習わしである。楽毅と翠は素直に腰に帯びていた剣を差し出す。楽乗はしばらく不服そうに顔を歪めていたが、やがて渋々と愛用の戟を差し出す。
「確かにお預かりしましたァ」
少女は両手ですべての武器を受け取ると、幕の外へと消えてゆく。その際、楽乗は怪訝そうな顔で少女の背中を視線で追っていた。
「どうかなさいましたか、楽乗さん?」
先に歩き出していた楽毅が振り返り訊ねる。
「あ、いいえ、何でもありません」
楽乗はかぶりを振り、すぐに楽毅達の背後に続いた。
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