昼時──
楽毅は街の広場にある長椅子にひとり腰かけていた。
楽峻の話によれば、ここが太子との待ち合わせ場所であるらしい。
──それにしても、今日は何で誰もいないのかしら?
好天に恵まれた中秋の穏やかな昼下がりであるにも関わらず、何度見回してみても近くには彼女以外人っ子ひとり見当たらなかった。
──太子が兵を遣って市民の立ち入り規制をしているのかしら?
しかし、今回の謁見は極秘であり、太子は楽峻以外にその事を伝えていないはずだ。
だから、わざわざ目立つような事を行うはずが無い。
──ああ、今さらだけど緊張してきたわ。どうしよう……。
昨晩は、聖人面した太子の本性を見抜いてやる、などと意気込んで床に就いたものの、いざその時になるとやはり気後れしてしまう。
もしも、噂通りの眉目秀麗だったとして──
もしも、会話がはずんでいい雰囲気になったとして──
もしも、太子に気に入られて体を求められたとしたら──
──ま、まさか、いきなりそこまでは……でも、男の人は手が早いって聞くし……。
妄想は留まるところを知らず、ついには紅潮した頬に手を当てて体をクネクネと歪曲させるのだった。
「そなたが楽毅か?」
その時、正面から声をかけられる。
「ひゃいッ⁉︎」
完全に虚を衝かれた楽毅は、素っ頓狂な声を上げながらもの凄い速さで立ち上がる。
いつの間に現れたのか、彼女のすぐ目の前には長身の青年がキョトンとした面持ちで立っていた。
「あ、いえ、その、楽毅でしゅ! ……楽毅です」
真っ白になってしまった頭で必死に言葉を絞り出す。
そんな楽毅の姿に青年は思わず笑みを漏らし、
「私は姫尚だ。今日はよろしく頼む」
よく徹った清らかな美声でそう告げた。
「た、太子におかれましてはご機嫌麗しく──」
「よいよい。堅苦しいのはナシだ」
うやうやしく拝礼を向ける楽毅を制し、
「今日は楽峻の計らいで密かに宮廷を抜け出して来た。今の私はただの姫尚だ。そう呼んで欲しい」
気さくに言った。
「か、かしこまりました、き、姫尚様」
しかし、楽毅の口調はしどろもどろである。
「まだ堅いな。もっと肩の力を抜くといい」
「は、はい。姫尚……どの」
楽毅としてはこれが精一杯であった。
「……まあ、良いか。今日は楽しもう、楽毅」
姫尚は屈託の無い笑顔で言うと、右手を楽毅の前に差し出した。
「……はい。よろしくお願いいたします」
楽毅はやや逡巡しながらもその手を取り、少しはにかんだ笑顔を向けた。
二人は広場を抜けて街の目抜き通りへと出た。
臨淄や邯鄲などの大都市に比べれば明らかに規模は小さいが、それでも麗らかな昼下がりにはそれなりの混雑を見せていた。
すれ違う人々は大抵、この二人に視線を向ける。
「……おかしいぞ。楽峻から衣装を拝借してうまく市井に紛れたつもりであったが、どうも周囲の視線を感じる。何か不手際があったか?」
姫尚が自分の出で立ちをしげしげと見下ろしながら首をかしげた。
確かに紫の色彩は多少派手ではあったが、衣装そのものは市井の者と同じありふれた意匠であった。
「申し訳ありません。せっかく姫尚どのが気をつかわれたのに、わたしがそれを台無しにしてしまったみたいです……」
視線の先が自分にある事に気づいた楽毅は、やはり派手過ぎた、と姫尚との釣り合いの悪さを感じて悔いる様に言った。
「ああ、そうか。みな楽毅に見とれているのか。私の正体がバレたワケでは無いのだな」
姫尚は納得したようにしきりうなずくと、
「確かに、このような美女と歩いていれば衆目を集めるのも無理はないな」
逆にうれししそうに胸を張るのだった。
「わ、わたしは別に美しくなどありませんッ!」
何の躊躇いも無くもたらされた美辞に、楽毅は思わず取り乱した。
「それに、奇妙でございましょう? この髪も瞳も……」
どんなに中華風の装いをしたところで、異人の血脈までは隠せない。中華人の血を引きながら中華人になりきれない歯がゆさは楽毅に常につきまとうのだった。
「たしかに、言葉も意思も通じない相手であれば恐れをいだいても不思議ではない。しかし、そなたと私は同じ言葉を介してこうして会話をしている。何を臆する事があろうか」
そう言って姫尚は立ち止まり、楽毅の方に向き直ると、
「その髪も瞳も、そなたの母から授かった賜物であろう。何も恥じる事など無い」
横髪を撫でるようにして触れ、男は諭す様に囁く。
「姫尚どの……」
楽毅の胸がとたんに早鐘を打つ。
長身で均整の取れた体躯──
慈悲に富んだ鳶色の瞳──
そして、心まで溶かしてしまうような甘い話術──
すべてが完璧で、彼女は完全に引きこまれてしまっていた。
──違う。完璧な人間なんているはずないわ。
そう思う楽毅であったが、めくるめく情感に抗う事が出来ない。
──いけない。このままでは太子に身も心も……。
と、その刹那であった。
楽毅のお腹が、ぐぅ、と気の抜けた音色を奏でたのだ。
「す、すみません! 朝から何も食べていなかったもので、つい……」
二三歩後ずさり、羞恥に顔を染めてひたすら平謝りする。
姫尚は思わず哄笑し、その後ですぐに、
「そういえば、私も空腹であった。まずは腹ごしらえを済まそう」
そう提案し、辺りを見回した。
「何やらあそこから香ばしい匂いが流れてくるが、あれは何だ?」
食欲を誘う匂いに惹かれた姫尚が、通りに佇む一軒の露店を指差して問うた。
「ああ、あれは肉まんです。今、中華大陸で一番流行している軽食の屋台です。よろしければわたしが購入して参りましょうか?」
「頼む」
姫尚は店の方に目をやったまま即答した。
「かしこまりました」
楽毅はすぐさま露店へと向かった。
その露店は楽毅がまだ臨淄に留学する前から営業しており、たまに楽峻と共に外出した際には必ず立ち寄っていた。そこの女性店主とは顔なじみであり、楽毅が紅毛碧眼の異人である事を知っても他の者と変わらぬ応対をするので、楽毅にとっては数少ない憩いの場であった。
「英おばさん、お久し振りです」
「いらっしゃい……アラぁ、誰かと思ったら楽峻将軍様のところの楽毅ちゃんじゃない‼︎ ホント、久し振りね~ェ」
恰幅の良い中年の女性が満面の笑顔で迎える。
「何でも、どこか遠くに留学してたんだって?」
「はい。一昨日帰国しました」
「アラぁ、そうだったの。それにしてもすっごい美人さんになっちゃって、おばさん驚いちゃったわァ」
ものすごい勢いで話を続ける英おばさん。彼女はとにかく話好きで有名であった。
「そんなにおめかししちゃって。あ、もしかして彼氏と逢引きとか?」
「え、ええ、まぁ……」
否定するとまたいろいろとツッこまれてややこしい事になりそうなので、正直にそう答えた。
「それで、今日は肉まんを──」
「アラぁ、うらやましいわァ! やっぱり若いっていいわねェ」
「ええ……。それで、肉まんを──」
「そういえば、お父さんと弟さんはお元気?」
「はい。父も弟も息災です。それで、肉まん──」
「あ、そうそう。この前、香さんのところの息子さんがね──」
しまいには全く関係の無い人の噂話まで始めてしまい、結局楽毅が肉まんを購入出来たのはそれから十分も後の事であった。
「すみません、つい話しこんでしまいお待たせしてしまいました」
店から少し離れた休憩用の長椅子に腰かけている姫尚の元に駆け寄り、頭を下げて詫びる楽毅。
「あの店主は実にうれしそうにそなたと話をしていた。知り合いか?」
「はい……」
「ならば話をしたくなるのも無理もない。気にするな」
姫尚はそう言って笑い、手を差し出した。
すみません、ともう一度謝り、楽毅は笹の葉に包まれた肉まんを手渡す。
「ほう、柔らかいな」
それを受け取るとしばらくその感触を確かめ、そしてひと口ふくんだ。
「……うむ、うまい! 中から香ばしい肉汁が止めどなくあふれ出し、タケノコのサクサクとした歯ごたえと生地のフワフワとした食感が見事に融合している」
姫尚は感嘆の声を上げながら勢いよく食すと、まるで料理評論家のような感想を述べる。
「それは良かったです」
正直、王族の口に合うのか心配であった楽毅もそれを聞いて安心し、姫尚の隣りに腰かけて自分の肉まんを頬張る。
以前食べた時と変わらない旨味が口中に広がった。
肉まんを食べ終えてから、楽毅は臨淄にいた頃の話を請われ、語った。
五十万もの人々の活気に満ちた街の事──
孫翁の兵学所で学んだ日々の事──
たくさんの友達と出逢えた事──
その中でも取り分け姫尚は、孟嘗君──齋和の話に聞き入り、たびたび感嘆を漏らすのだった。
「母の生まれ育った臨淄。私もぜひ自らの脚で訪れたいものだ……」
話を聞き終えた姫尚はおもむろに天を見上げ、気鬱を含んだ口調でそう呟いた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!