背中を流し終えた楽毅達は、再び湯船に浸かる。
楽間も蟠りを捨てたようで、みんなの和の中に加わり、楽毅達の帰国の旅の話を興味深く聞いていた。
談笑していた楽毅はふと、趙軍陣営の中で出会った稷と呼ばれたあの少年の事を思い出した。彼女にとっては裸の姿を堂々とのぞかれたという忌まわしい記憶があるが、その少年の素性がどうしても気にかかったのだ。
「ねぇ、翠。稷という名の公子が趙にいる、なんて話は聞いた事無いかしら? 歳はわたしと同じくらいで」
「稷、ですか? ……いいえ、私の知る限りでは趙には太子の趙章以外には公子の趙何と趙豹、公女に趙勝姫がいるだけで、いずれも楽毅姉さんより年下です」
その問いに、翠は商人として得た知識を頭の中で巡らせ、澱み無く答えた。
「そう、ですか……」
だとすれば、あの少年は一体何者で、なぜ趙軍の中にいたのか余計に分からない。
ただ、と言って翠は続ける。
「この前亡くなった秦の武王の弟に贏稷という名の公子がいて、その方は確か燕の国にご遊学されているはずです」
「秦の贏稷……。燕に遊学……」
秦は中華大陸の西端に位置する強国で、燕は中華大陸の北東に位置する小国である。この両国を直線で結んだ間には、趙と中山国がある。
もしも楽毅が出会ったあの少年が翠の言う秦の公子・贏稷だとしたら──
彼が敵軍陣営にいた理由を、楽毅は自分が趙の武霊王になったつもりで考察し始めた。
秦の武王の死後、なぜか趙陣営の中にいた公子──
攻勢にあった趙軍の突然の停滞──
そして、趙と燕は現在同盟関係にある──
「……そうか、そういう事だったのね!」
頭の中でバラバラだった欠片が一処に納まると同時に、楽毅は武霊王の深謀の恐ろしさに気づき、勢い良く立ち上がった。
「すみませんが、先に上がらせてもらいます」
そう言い残し、楽毅は急ぎ足で浴室を後にする。
そこに残された者達は、何事かと問う暇も無いままその後ろ姿を見送るのだった。
楽毅は脱衣所の衝立にかけてあった大きな布をはぎ取るとそれを体に巻き、そのまま流れる様に廊下へと飛び出し、楽峻のいる部屋へと駆け出す。
途中で女中の者とすれ違って驚いた顔をされるが、ゴメンなさい、と言ってそのまま駆け抜ける。
「父上ッ!」
目的の部屋に猛然と飛びこみ、灯火の前で竹簡に目を通している楽峻に呼びかける。
「楽毅か。うん? な、何だそのはしたない姿は⁉︎」
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる娘のあられもない姿に、楽峻は思わず取り乱した。
「そんなことよりも父上、すぐに街中の工人を招集してください。事態は急を要します!」
楽毅は意に介さずそう叫んだ。
楽峻はその言葉の真意を問うよりもまず、彼女の鬼気迫る剣幕に気圧されるばかりだった。
「近い内に趙軍の攻撃が再開されます。それに備えなければなりません」
たたみかける様に、楽毅は要点を敷衍してそう続けて述べた。
なぜ彼女にそのような事が分かるのか疑念が尽きない楽峻であったが、それが確かなら一大事である。
趙軍は今、東垣の邑を囲んだまま攻めあぐねている──
それが中山軍の見解であり、過去に趙を攻めて勝利した経験も手伝ってか、完全に彼らを見下しているきらいがあった。
楽峻自身も油断こそしていないものの、趙軍の勢いは完全に止まったのでは、と思うようになっていた。
「……分かった。すぐに工人に招集をかけよう。だが、その前に──」
楽峻はおもむろに立ち上がると、薄布一枚まとっただけの姿で部屋の前に仁王立つ楽毅を指差し、
「まずは体をよく拭いて、きちんと服を着なさい。この非常時に風邪をひく訳にはいかないだろう?」
父親らしい気づかいを見せた。
「やだッ! わたしったら、慌ててたから……」
ようやく自分のあられもない姿に気づいた楽毅は、自身の粗忽ぶりに顔を赤らめ、失礼しました、と言い残してそそくさとその場を後にした。
パタパタという足音が遠ざかって行くのを確認した楽峻は、
「これでは胸を張って嫁に送り出せないな」
娘の行く末を案じて苦笑するのだった。
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