趙の国都・邯鄲──
“中華大陸一の雅”と称され、都人の優雅な歩き方を真似るために他国人が訪れるほどであったが、武を好む武霊王が統治する今では武人や武器商人の姿が多く目立つようになっていた。
昨年の初秋にも訪れたことがあるその邑の中を、楽毅たちは趙兵と共に歩いていた。
「そういえば、翠と初めて会ったのもここでしたわね。まだ一年も経ってないのに、何だか遠い昔のように懐かしく感じますわ」
「……本当に、そうですね」
露店が多く立ち並ぶ中央通りの喧騒に目をやりながら、楽毅と翠はその当時のことをふと思い返していた。
「戦に使うための鉄と弩を、楊どののご厚意で破格の値で売っていただいたのでしたね」
「本当にあの時は驚きました。正直、楊様のお考えが理解出来ませんでした。でも、今ならその商売人の勘が正しかったのだと、ハッキリわかります」
「そうです。お姉様の奮闘振りは、きっと中華大陸中に響き渡るはずです。何せ、あの武霊王を相手にこれだけ善戦したのですから」
楽乗が力強く同調する。
すると先導する兵士たちが、不快に満ちた渋い顔で彼女たちを一瞥する。
「ですが、わたしは中山国を護れませんでした……。誇れるようなものは何もありません」
楽毅は儚げな笑みを浮かべて言った。
実際、彼女の胸に達成感のようなものは微塵も無く、ただ、心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような、そんな喪失感と虚無感だけが支配しているのであった。
そんな彼女の気持ちを何となく察した楽乗たちは、これ以上何も言わなかった。
「それでは、正式な通達があるまではこちらをお使いください」
そう言って兵士たちに案内された場所は、宮殿よりかなり離れた路地の一郭に佇む、一軒のみすぼらし家だった。
「こんなあばら家に住めと言うのか? せめて楽毅お姉様だけでももう少しマシな邸宅に移ることはできないのか?」
「はい。ただいま空き家が不足しておりますゆえ、こちらで我慢していただきたい」
しかし、と言ってごねる楽乗を制して、
「いいではありませんか。みなさんとご一緒出来るのですから、これ以上望むものはございません」
楽毅は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「姉上がそうおっしゃるのなら」
楽間がそう言うと、楽乗と翠も同調してうなずく。
「それでは、後ほど小間使いの者が参りますので、何かありましたらその者にお申しつけください」
案内役の兵士は事務的な口調で言うと、結局最後まで楽毅たちを卑下したまま、ドカドカと荒々しい足取りでその場を去って行った。
「無礼なヤツめ」
その後ろ姿に向けて、楽乗は憮然とした面持ちで言い放つ。
「仕方ありません。つい数日前までは敵同士だったのですから」
宥めるように楽毅は言う。
しかし、これが武霊王の楽毅たちに対する気持ちの表れであることは、そこにいる全員が感じていた。
以前に交渉のために武霊王と面会した時も、彼は楽毅が女であるという理由だけで、男と同等の官職を与えることを嫌った。 その例からも、たとえ武霊王にその才を認められたとしても、楽毅に出世の見こみがあるかといえば、かなり厳しい状況であると言わざるを得ないだろう。
それでも、楽毅はこの待遇を甘んじて受け入れた。
これまで国の存続のみに腐心してきた彼女にとって、今のように何をすればいいのかわからない状況下で、とりあえず大切な仲間と穏やかな時を過ごすのはいいことなのかもしれない。そう感じて。
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