目的の宿へと近づく。
眼鏡を掛けている趙奢程ではないが視力があまり良くない楽毅の目にも、その建物の前で直立不動の姿勢を崩さない長身の人物の存在をハッキリと確認できた。
相手の方も楽毅の存在に気づいた様で、すぐに駆け寄る。
「お待たせしました、楽乗さん」
その長身の少女──楽乗に会釈する。
「もう、お別れのご挨拶はお済みですか? 出発はもう少し後でもよろしいのですよ」
楽毅の心情を慮った楽乗は、あえて急かす様な事はしなかった。
昨日までに楽毅は、仲蓮や元達など臨淄の友人に別れを告げていた。
しかし唯一、まだ別れを告げていない──告げる事が出来ていない人物がいた。
「……ではお言葉に甘えまして。最後に出立前のご挨拶に参りたい方がございます。ご一緒していただけますか?」
「喜んでお供つかまつります!」
楽乗の勇ましい返答。
楽毅はそれを頼もしく思うのだった。
「こちらになります」
商業区を抜けて王宮のある行政区へと足を運んだ楽毅達は、その中でもひと際煌びやかな屋敷の前へとやって来た。
それを見上げた楽乗は思わず、はぁ、と惚けた声を漏らす。
何しろ敷地が広く、屋敷を囲む塀の端がかすんでしまう程なのだ。
「ずいぶんと立派な佇まいですが、一体どなたのお屋敷ですか?」
「斉の宰相……孟嘗君です」
「ああ、孟嘗君ですか。どうりで……って、孟嘗君ッッッ⁉︎」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう楽乗。
孟嘗君こと田文姫──
その愛らしい外見と絶大な人望性から多くの食客を抱える偶像。薛という地を所領として賜っている事から薛公とも称される。
彼女の演奏会は必ず人垣で埋め尽くされ、会場は観客達の熱狂と阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
とにかく中華大陸で一番の有名人と言っても差し支えない程の超大物であり、当然彼女もその盛名は耳にしていた。
「お、お姉様はあの孟嘗君とお、おお……お知り合いなのですか?」
楽乗は興奮し、大きな体を目一杯使ってあたふたとばたつく。
「……共通のお友達がおります。その縁でお会い出来たら良いのですが……」
ひとり言のように呟き、楽毅は門の方へと向かう。
その後を、楽乗は慌てて追った。
門は重厚な扉によって堅く閉ざされており、その両端は戈を携えた二人の門番で固められていた。
「すみません。孟嘗君にお目通り願いたいのですが」
何の躊躇も無く、楽毅は拱手──両手を胸の前で組み合わせる敬礼──と共に門番のひとりにそう告げる。よりにもよって強面で容貌魁偉の男の方であった。
「事前約束かどなたかの紹介状はありますか?」
外見に違わぬ迫力を帯びた銅鑼声が返る。
「そのどちらもございません」
「どちらも……無い?」
あまりにあっけらかんとしたその言葉に、門番は思わず虚を衝かれたように惚けてしまった。
「……失礼ですが、孟嘗君はご多忙の身。事前約束や紹介状が無い方と面会なさる事はまず無いと思われますが?」
「存じ上げております。お目通りが叶わずとも構いません。どうか、『中山国の楽毅が参った』とだけお伝え願いたい所存です」
なおも引き下がらない少女に、男の眉がわずかに吊り上がる。
中山国が斉の敵国である事は、もちろん門番は知っていた。しかし、その敵国の者が白昼堂々何の用で孟嘗君に面会を求めるのか、彼はそれを看破出来ずにいた。
一方で孟嘗君は出身や貴賤に囚われず、身元の確かな者であれば誰でも喜んで対面する度量の廣さを持った人物である事も理解している。
「……分かりました。お伝えするので、少々お待ちください」
逡巡の末、男は楽毅にそう言い残し、すぐ脇の塀に設えられた小さな扉をくぐって敷地中へと消えていった。
涼やかな面持ちでそれを見送る楽毅。しかし、実際に会えるかどうかは、正直分からなかった。何しろ、齋和としての孟嘗君とは面識があっても、孟嘗君としての齋和に会うのは初めてなのだから。
そして五分程の時が経ち、先程の門番がまるで狐につままれたような面持ちで戻って来た。
「孟嘗君が貴女との面会をご所望です。どうぞこちらから──」
そう言って、男は門の片側を押し開ける。
ゴンっという重低音と共に開かれた扉の先で、さらに大柄な体躯のひとりの青年が佇んでいた。
「……ご案内致します」
深々と頭を下げるとその男は踵を返し、静かに歩き出した。
どうやら面会が叶うようなので心の中で密かに安堵し、楽毅は門をくぐる。
その後を、まるで白日夢でも見ているかの様に浮ついた足取りの楽乗が続いた。
石畳の道が連なる庭園を歩いているとすぐに、 金木犀や柘榴といった秋の香が鼻をくすぐる。
庭園にあるものは木々や花々だけではない。左に目を向ければ、湧き水を溶々と留めた池があり、右に目を向ければ優雅な空間を形成している東屋があった。
「あの池、鯉とかたくさんいそう……」
楽乗が何気無く呟いたその時、ちょうど池の中からバシャバシャという大きな水音が発せられる。
「もしかしたら、龍が潜んでいるのかも知れませんね」
楽毅が冗談めかしく言うと、まさか、と楽乗が苦笑いする。
しかし、五十万もの人工を内包した大都市である臨淄のただ中にありながら、その喧騒とはかけ離れたこの屋敷はまるでひとつの別世界を──いうなれば孟嘗君という傑物の底知れぬ器をそのまま顕現しているかの様でもあった。
──ここが孟嘗君の描いた世界だとすれば、龍が潜んでいてもおかしくない。いいえ、孟嘗君が龍そのものなのかもしれないわ。
楽毅はそんな風に思い、
「わたし達はこれから、龍の懐に飛びこむワケか」
ポツリと呟いた。
さらに五分程歩いてようやく庭園を抜けると、白亜に彩られた邸宅が目の前に現れた。その荘厳な建造物を見上げた楽毅は、顎門を開けて待ち構える大蛇の如く威圧感を感じてわずかに怯む。
──この邸宅はさしずめ頭。わたし達はその口内へと飛びこんでゆくのね。
ひとつ呼吸を整え、楽毅は意を決して中へと足を踏み入れた。
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