二人の背中が完全に見えなくなった頃、三人はおもむろに立ち上がる。
「本当に大丈夫なのか?」
楽峻が心配そうに口を開く。
「ええ。おそらく武霊王は東垣をはじめとする主要拠点を要求してくるでしょうけれども、なんとか躱してご覧にいれます」
「そうではない。お前自身の事を案じておるのだ」
父のその言葉に、楽毅はキョトンと首をかしげる。
補足する様に姫尚が続けて、
「今回の作戦を立案したのがそなたである事は、恐らく武霊王の耳にも届いているはずだ。あの狡猾な男がおめおめとそなたを無事に還すとは思えない」
別の者を向かわせるべきだ、と説得する。
しかし、楽毅は微笑みを浮かべ、
「お二人共わたしの事を心配してくださり、ありがとうございます。ですが、武霊王もさすがに使者に危害を加える様な事はしないでしょう。ですが、万が一その様な蛮行があったなら、我が国はその非を大いに責め立ててやればよいのです」
事も無げに言うのだった。
姫尚と楽峻は顔を見合わせて苦笑する。武霊王という傑物を意に介す素振りすら見せないこの少女に、二人は感嘆すると同時に、狡猾な武霊王の元に向かわせる事への危険性を改めて感じるのだった。
しかし、留学後の楽毅の、こうと決めたら梃子でも動かない性格を察した楽峻は、
「ならば楽毅よ。我らはどうすればいい?」
国としてこれからどういう方針を取るべきか訊ねる。
楽毅は口元にしなやかな指を添え、しばらく思惟してから意見を述べた。
「仮にこの講和が成ったとしても、武霊王の事ですからいつ反故にされるかわかりません。当初の予定通り、雪で軍を動かせない今の内に他国に援助を請う使者を送るべきかと思います」
「たしかにその通りだ。だが、どこへ?」
「魏と……燕です」
その言葉に、二人は驚きをあらわにした。
「魏はまだ分かる。かつてこの地は魏の傘下にあった。憐憫の情もあるやも知れぬ。しかし、燕から助力を仰げる可能性は零に等しいのではないか?」
楽毅は眉をひそめて押し黙る。
無理も無い。かつて燕が斉によって滅亡の一歩手前まで追いつめられた時、積極的では無かったにせよ中山国も斉に加担して燕を攻めた。その事実を燕が忘れているはずがない。
さらに燕は現在趙と同盟関係にあり、国の再興を斉に認めさせた恩義がある。そんな経緯を踏まえて考えると、大恩ある趙との同盟を袖にしてまで燕が中山国に友好を示すとは到底思えない。
「仰る通りです。ですが、それでもやるしかないのです。武霊王の野望の矛先はいずれ燕にもおよぶ。その脅威を察知出来る賢者が燕にいれば、きっと思いは伝わるはずです」
力強く語る楽毅であったが、その実、楽峻の言うとおりかなり分の悪い賭けであると承知していた。逆に言えばそれくらいの事をしなければ趙に対抗するだけの力を得られないくらいに、中山国は窮地に陥っているのだ。
もちろん一番の良策は斉との交誼を回復させ、その助力を得る事だがしかし、中山王はそれだけは決して認めない。
他の国の情勢を思議してみれば、韓は秦の猛攻を受けたばかりで余裕がない。楚も韓と似たような状況だが、それ以前に中山国からあまりにも遠すぎる。強国の秦は武王の急死により今は内乱状態にある。となれば、頼みにできる国は自ずと限られてしまうのだ。
「武霊王との交渉が終わり次第、わたしが赴いて説き伏せたいと思います」
「楽毅が自らか? しかし、両方をこなすには時間が無いし何よりも体が持たないぞ。どちらか一方は別の者を遣るべきだと思うぞ」
姫尚の提案に楽毅は、そうですね、と言って思案し、
「では私は魏へ赴く事にします。燕との交渉は申し訳ございませんがお任せいたします」
そう結論を下した。
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