趙国の公子・趙何。
武霊王の実子ではあるが、その性質は父親とはまるで正反対で控えめで大人しく、そして女子と見まごうほど華奢であった。
「お加減はいかがですか、母上?」
寝台の上に横たわる女性に向けて、その傍らからそっと声をかける趙何。
その女性──趙何の母・呉孟姚は仰向けのまま視線だけそちらに送ると、弱々しく微笑む。
「そうですか……良かった」
趙何もそれに対して笑みで返す。
しかし、彼は知っていた。目の前の女性の命がまもなく尽きることを。
一年くらい前から重い病に罹り、床に伏せがちだった彼女は時が経つにつれてそこから起き上がれなくなり、今では完全に寝たきりの状態となっていた。
かつて武霊王の寵愛を一身に浴びた美しき妃も、今では美白の肌は屍蝋の如く蒼白くくすみ、頬も削げ落ちたように痩せこけ、ふくよかだった唇もあちこちがひび割れてしまっている。
朽ちかけの花の如く様相ではあったが、しかしその瞳だけはまだ輝きを失ってはいなかった。
「私は公子ではありますが義妹の趙勝姫のような華もなければ、義弟の趙豹のように賢くもありません。ですが……だからこそこうして母上の側にいられる。共に過ごせる。それで充分です」
趙何は、まるで自身に語りかけるように言うと、母の手をそっと握る。
孟姚はうれしそうに、それでいてどこか哀しげな面持ちを向ける。
母は──孟姚は彼が人を慈しむ心を持っていることをうれしく思う反面、自身と同じ病弱な体質を引き継いでしまったが故に引きこもりがちで他の子のような活発な行動が出来ないことを、まるで自身の罪のように重く感じているのだった。
趙何の方も自身が太子である義兄・趙章に疎まれていることを知っており、また、父である武霊王も美しい母を愛しこそすれ、彼とは正反対の性質を持つ息子の趙何には何の期待もいだいていないことも感じ取っていた。
これで良い──
日陰者としてこのままずっと母に寄り添い、母が亡くなったらその菩提を弔いながらひっそりと一生を終えよう。
しかし──
このまま誰にも見向きもされないまま一生を終えて良いのだろうか?
自分は何のために生きているのだろう?
心の奥底でもやもやとした別の感情が生起して、彼自身に問いかけるのだった。
そう感じるようになったのは、楽毅と出逢ってからであった。
あの日、妹の趙勝姫に誘われるがままに宮殿を抜け出したものの、彼自身は本当はそこまで乗り気ではなかった。
しかし、ひと目楽毅を見ただけでまずその美しさに惹かれ、彼女の話を聞く内にその生き方にも惹かれていた。
自分と同じように人生に何の目的も見いだせなかった少女が、ここまで強く、そして高く飛翔出来たのだ。
自分も斯くありたい──
少年はこれまで感じたことの無い高揚感に身を震わせ、そんな思いをいだくようになったのだった。
しかし、変化を切望するものの実際にどうしたらよいのか分からなかった。王族という身分が縛りとなり、楽毅のように自由に外の世界へ旅立つことなど到底叶わないのだ。
刹那、彼の頬を細長い指がそっとなぞる。
「母上……」
浮かない顔のまま黙していたので心配になったのだろう。孟姚は自由の利かない体でありながら必死にその細腕を伸ばすのだった。
「すみません。少し考え事をしておりました」
苦笑し、その手を握り返す趙何。
「申し上げます」
と、その時だった。
ひとりの兵士が部屋の前で片膝をつき拱手すると、
「ただいま主上が宰相と共に参られました!」
淡々とした口調で告げる。
「そうか……すぐにお通ししろ」
趙何がそう告げると兵士は肯首と共にすぐにその場を去って行った。
武霊王が趙何の部屋を訪れるの珍しいことでは無い。しかし、その目的はすべて寵愛する孟姚の見舞いであり、それは中山国遠征の直前でも遠征を終えた直後でも、彼は足しげく通っていたのだ。
しかし、今回は武霊王ひとりではなく宰相も随行しているという。
──ただの見舞いでは無いのか……?
初めてのことに首をかしげる趙何。
その疑問が拭えぬ内に、寝台のあるこの部屋に虎皮の衣をまとった大男が現れる。
しかし彼は愛妾が横たわる寝台に向かうことなくその場に静止し、爛々と瞠いた猛威の瞳で趙何の方をただジッと見据えるのだった。
「……ご来訪いただき真に恐悦至極に存じます、父上」
趙何は突き刺すようなその眼光に耐えきれずに目を伏せると、うやうやしく述べる。
「本日は趙何様にお伝えしたき儀がございまして参りました」
虎皮の男の背後から現れた白髪の老人が、代弁するようにそう述べる。
彼は趙国の宰相で名を肥義という。武霊王の教育係として彼が幼いころから補佐し、長年仕えてきた忠臣である。
「伝えたいこと……?」
趙何はますます分からなくなり、もう一度首をかしげる。
肥義はコクリと小さくうなずくと、隣に立つ大男をチラリと見やる。
趙何もそちらへと視線を戻す。
それでもなお黙したままの武霊王であったが、少年がようやく目を合わせてきたのを確認すると、
「趙何よ。今よりそなたを太子とする」
感情の希薄な低い声色で淡々と述べる。
「……え? 今、何とおっしゃられました?」
趙何はその言葉をすぐに嚥下出来ず、呆けた顔で聞き返してしまう。
「今よりそなたを太子とする」
武霊王は眉ひとつ動かすこと無く、先ほどと同じ言葉を同じ声色で繰り返す。
それでもまだ首をかしげる趙何であったが、ようやくその言葉の重大性を理解すると、
「と、突然そのような事をおっしゃれても困ります。第一、兄上は──趙章どのはどのように答えられたのですか⁉︎」
困惑をあらわに問う。
「趙章にはこれから伝える。それなりの地位に据えるつもりだ。お前は何も気にすることは無い」
「し、しかし……」
気にするな、と言われたところで簡単にそう出来るはずも無かった。
廃嫡という行為は国家の一大事であり、忌避すべき事象である。それが原因で国に乱れが生じ、滅亡へとかたむく危険性を大いに孕んでいるからだ。
「この事はすでに重臣たちにも伝えており、彼らの承認はすべて得られております。趙何様は何も心配することはございません」
そんな不安を感じ取ったのか、肥義がそう補足する。
「それでも……私に時期国王が務まるのでしょうか?」
どうしても脱ぐい切れない不安を吐露する趙何。
自分には何も無い──
そう感じていた少年に突然舞いこんだその報は正に晴天の霹靂であり、国家の枢要に関わる事案はあまりにも大きくて重いものであった。
それこそ、真っ白に染まってしまった頭の中で今すぐに答えを出すことなど出来るはずもない。
「務まるか務まらないか、では無い。やるかやらないか、答えはそれだけだ」
しかし、武霊王は淡々とした口調で切り捨てるように言い放つ。
「やるかやらないか……」
冷酷な言葉ではあったがしかし、趙何は胸の奥底で別の感情が胎動するのを感じた。
病弱で部屋に引きこもりがちで、常にひとりで書物を読み耽っていた少年は、これまで父親やその家臣の誰からも見向きもされない不遇の存在であった。
将来的に王となればこれまで以上に自由が利かなくなる半面、立場上から自ずと各国の要人と面会し交渉する機会が訪れるであろう。
それは強国の王かも知れないし、国の中核を成す名将かも知れない。敬愛する楽毅ですら逢うことさえ難しいであろうそんな大物との交誼は、きっと大きな刺激となるに違いない。
これは、絶対に日の目を見ることは無いと思っていたそんな彼に舞いこんだ数奇な運命であり、楽毅とは違う形で己を変える好機となり得るものであった。
「まあ、これほど重大な事柄を今すぐ決めろというのは酷というものです。数日じっくりお考えいただき、その後に──」
「かしこまりました」
「そう、かしこまりましたとお返事を……って、えぇッッッ! 今何とおっしゃいました⁉︎」
先ほどと打って変わっての積極的な少年の言動に、助け舟を出したはずの肥義の方が驚き戸惑う。
「映えある趙国の太子、僭越ながらお引き受け致します」
趙何は片膝をついて拝礼し、武霊王に向けて堂々とその意向を伝える。
呆けた面持ちしきりに目を瞬かせる肥義に対し、武霊王は相変わらず眉ひとつ動かさず、ジッと趙何を見すえている。
しかし、趙何は怖気ずくこと無く正面を向き、
「微才の身ではありますが、太子を。そして時期国王を務めさせていただく所存でございます」
明瞭とした口調でそう伝えるのだった。
まるで刃を交えているかのようなその真剣な瞳から相応の覚悟を感じ取った武霊王は、
「……分かった」
ただひとことだけ言い残し、踵を返して部屋を後にする。
「母には逢わないのですか?」
去りゆくその背中に、趙何は訊ねる。
武霊王は歩みを止め、
「……母子水いらずの時を邪魔したくは無い。孟姚によろしく伝えてくれ」
振り返ること無くそう言い残し、再び歩み出す。
その後を、宰相の肥義が追う。
「父上……」
男の背中から父親としての不器用な愛情を感じ取った趙何は、誰もいなくなった部屋の入り口に向けて頭を下げるのだった。
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