七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
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第2話 万全は決して完璧ではない

公開日時: 2021年2月25日(木) 15:08
文字数:2,365

 その日の夜──


 楽毅がくきは自身の宿舎で地図を広げ、それをじっと俯瞰ふかんしていた。


 ちょう軍、中山ちゅうざん軍、せい軍に見立てた木製の駒を配置し、それを動かして頭の中で模擬戦闘シミュレートしてみる。様々な事象を想定し、何度も何度も繰り返してみたが、やはりどうあがいても戦況は好転しない。

 中山国ちゅうざんこくの総兵力は三万。対して趙は今回も武霊王ぶれいおうみずから指揮する十五万もの大軍。


 ──やはり、せい軍の動きが大きなカギになるわね。


 首を上にかたむけ、陰鬱のこもったため息をひとつ吐く。


 出来ればせい兵とは戦いたくない。楽毅がくきの兵法の師でもある孫翁そんおう──大軍師・孫臏そんぴんが、見事に鍛え上げた精鋭だ。今はちょう軍ほどの統率力は無いものの、交戦すれば戦力の消耗は避けられないだろう。


「ん?」


 その時だった。視界の先に映る天井の暗がりの中で、同色の黒い影のようなものがゆらりと、かすかにうごめいたように感じた。


「……誰かいるのですか?」


 暗闇に向けて問うその声は、楽毅がくき自身が驚くほどに冷静であった。


「……驚きました。気づかれたのは初めてです」


 風のように涼やかな男の声と共に、天井の影はハッキリ認識出来るほどにゆらめく。と同時に部屋を照らしている灯火が風に揺れる。


「お久し振りでございます、楽毅がくき様」


 今度は楽毅がくきのすぐ側で、先ほどと同じ低い声が発せられる。たった一秒にも満たない刹那、黒い影は天井から楽毅がくきの脇まで移動したのだ。


 全身黒ずくめ──

 筋骨隆々の巨躯きょく──

 陰鬱を帯びた顔のその男を、楽毅がくきは以前見たことがある。


「アナタはたしか、孟嘗君もうしょうくんのお屋敷にいた……」


 臨淄りんしつ前に孟嘗君もうしょうくんの屋敷を訪ねた際、案内をしてくれた男であるのを思い出した。


「覚えていてくださり光栄です。私はろうと申します」

「よくここまで入ってこれましたね。警備は万全を期していたはずなのですが」


 風をまとった男は、片膝をついた状態のまま、ほのかに笑った。


「万全……だからこそ、動きが読まれやすいこともございます」

「なるほど、万全は決して完璧ではない……。肝に命じておきます」


 楽毅がくきは苦笑し、おもむろに立ち上がる。明り取りの側まで歩み、外へと目を向ける。夜空に浮かぶ満月が黄金の眼となって楽毅がくきを淡いヴェールで包み込むと、紅い長髪が炎をまとったようにきらめいた。


 それで、と言って楽毅がくきは視線を宙に向けたまま、


孟嘗君もうしょうくんは何とおっしゃっておりましたか?」


 涼やかに問うた。


「……せいは、ちょうからの要請に呼応し、中山国ちゅうざんこくに兵ニ万を差し向けました。目標はここ、扶柳ふりゅう。到着はおよそ十日後になります」


 ろうと名乗った男は、淡々と述べた。


「ニ万……。斉王せいおう中山国ちゅうざんこく遠征にそれほど乗り気ではないようですね」


 それは、楽毅がくきが想定していたよりも少ない兵力だった。しかし、わずか五千しかいない扶柳ふりゅうの軍だけでは苦しい戦いになることに変わりは無かった。


「はい。そして、これからが我が主のお言葉になります」


 この男は孟嘗君もうしょうくん食客ファンであり、主とは孟嘗君もうしょうくんのことに他ならない。


せい中山国ちゅうざんこくに兵を向けるが、蹂躙じゅうりんするつもりは無い。しかし、ちょうとの兼ね合いもあり、手をこまねいている訳にもいかない。よって、せい軍は扶柳ふりゅう一城のみを攻略することと決めた。勝算の無い戦はくれぐれも避けるように……とのことでございます」

「……なるほど。たしかに、勝算の無い戦は避けなければなりません」


 楽毅がくきは、大人しく扶柳ふりゅうを明け渡すように、ということだとすぐに理解した。

 扶柳ふりゅうひとつでちょうへの体裁ていさいを保ち、なおかつ斉王せいおうを納得させるための処置なのだ、と。


「すぐに太子たいしと相談致します。お待ちになられますか?」

「いいえ、すぐにせいへ戻ります」

「分かりました。どうか、孟嘗君もうしょうくんによろしくお伝えください」

「……かしこまりました」


 そう言い残し、男は風と共にその姿を消した。


「……孟嘗君もうしょうくんはやはり、恐ろしいお方だわ」


 変わらぬ心づかいに感謝すると同時に、もしも、ろうが敵の刺客だったらと思うと、背筋にぞくりと寒気が走るのだった。



 それから十日後──


 孟嘗君もうしょうくん食客ファンであるろうと名乗る男からもたらされた報告通り、臨淄りんしを出立したせい軍ニ万が楽毅がくきたちの立てこもる扶柳ふりゅう城の眼前に集結。中山ちゅうざん軍は城門を開き、白旗を掲げた騎兵を先頭に姫尚きしょうみずから出向き、そのすぐ後ろには楽毅がくきがついていた。


「わざわざのお出迎え、痛み入りまする」


 せい軍を率いる将が前に出て来て拱手こうしゅする。

 歳は二十代後半くらい。恰幅かっぷくがよく丸顔で人懐っこそうな印象の男だ。


「私はこの軍を率います、韓徐かんじょと申します」


 男はほがらかな声でそう名乗った。


中山国ちゅうざんこく太子たいしでこの城を預かる姫尚きしょうと申します」


 韓徐かんじょに負けないさわやかな声で答える。


「おお、太子たいしみずからお出ましとは。しかし、太子たいしともあろうお方がなぜこのような僻地へきちに?」

「……少々失敗を致しまして。王の不興ふこうを買った次第です」


 苦笑で返す姫尚きしょう


「左様でしたか……」


 何と無く事情を察した韓徐かんじょは、あえてその話題を掘り下げることはせず、


「白旗を掲げているということは、城を明け渡してもらえる、と解釈してよろしいのですかな?」


 確認のために問う。


「はい。我々はせい軍と争うつもりはありません」

「賢明な判断です。こちらも、ちょう軍の使いぱしりとして消耗させられるのはご免こうむりたいですからな」


 韓徐かんじょは大きな体を揺らしながら、からからと笑った。


「ああ、そうそう。あなたが楽毅がくきどのですかな?」


 韓徐かんじょ姫尚きしょうの背後にいる楽毅がくきの姿をとらえ、話しかける。紅毛碧眼こうもうへきがんという特徴を知っていたようだ。


「ええ、そうですが……?」

「あなたのご学友である田単でんたんどのより、書簡を預かっております」


 そう言って懐から竹束を取り出し、差し出す。


田単でんたんが⁉」


 驚きとうれしさの混じった声を上げる。

 楽毅がくきはそれを受け取ると、すぐに広げて見た。


「……え⁉」


 しばらく穏やかな顔で読み進めていた楽毅がくきだったが、突然眉をひそめた。

 そして、すべて読み終えるやいなや、


太子たいし、すぐに東垣とうえんに向かいましょう!」


 切羽せっぱ詰まった声で言うのだった。

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