邯鄲を発ってから三日目──
楽毅達を乗せた馬車は、ついに趙軍が攻め落とした中山国の領域へと入った。
迂回して霊寿の西に廻り、そこから中山国へ入国する案もあったが、それでは時間がかかり過ぎる事と、昨日楽毅が懸念したようにすでに趙軍がそちらの方まで廻っている可能性もあった。どの道趙軍を避けては通れないので、結局そのまま北へと直進する道筋を選択していた。
国境付近位置していた砦は原型を留めない程に崩壊し、そこかしこに転がる兵士の死骸はすでに鳥や獣などによって食い尽くされ、甲冑と骨のみという無惨な姿をさらしていた。
激しい戦闘の痕跡が生々しく残るその地を、楽毅達は心を痛めながらもその惨状をしかと胸に刻み前進を続けた。
しかし、その先に点在する砦には戦闘の痕跡どころか趙軍の姿も中山軍の姿見当たらず、無人の状態であった。
「中山軍は最初の砦が陥落した為に戦意喪失して東垣まで撤退。趙軍は無人の砦には目もくれずひたすら前進……。そんな所でしょうか?」
人っ子ひとりいない砦の横を悠々と通り過ぎながら、楽毅は己の見解を口にする。
「何とも情けない……。中山人の気骨を示したのは最初の砦だけかッ!」
楽乗が憤怒と共に馬車の座席に拳を振り下ろす。
「……そろそろ東垣を包囲している趙軍が我々に気づくはずです」
馭者席から翠が振り返り、重々しい空気が漂う馬車内に向けて淡々と告げた。
「かねてからの手はず通り、お二人には私と同じ商人として振るまっていただきます」
「……はい。心得ております」
今にも消え入りそうな弱々しい声で楽毅が答える。楽乗も小さくうなずいただけで、何も言葉を発する事は無かった。
それから数時間後、翠は前方から砂ぼこりを巻き上げながら近づいて来る騎影を視界に捉えた。
「騎兵がこちらに接近中。その数、およそ十騎。旗印から趙軍と思われます」
翠が冷静な口調で、端的に楽毅達に伝える。
「ついに来ましたか……」
楽毅はそう呟き、大きめの布を頭に覆って先ほど結び固めた紅い髪を完全に隠す。
楽毅はこれまで人生の大半を邸宅内で過ごしていたため、中山国内でもほとんど秘された存在だ。だから、『中山国に紅毛碧眼の娘がいる』という噂を趙軍の誰かが耳にしているとは思えない。
しかし、それでも彼女は念を入れて特徴的な赤い髪をひた隠しにする事にした。
──髪は隠せても瞳の色までは欺けない。なるべく陽の差さない場所にいないと。
楽毅は自身が備え持つ特徴によって趙軍に懐疑を抱かせる事の無いように、細心の注意をその胸に刻みこんだ。
やがて馬の蹄が大地を雄々しく蹴り上げて駆ける音が、馬車内にも届く。
「止まれ。止まれーいッ!」
緑色の甲冑をまとった馬上の男達が叫びながら、瞬く間に先頭の幌馬車をぐるりと取り囲んだ。
翠が手綱を引いて馬を止めると、後続の荷馬車もそれにならって次々と止まる。
「我々は趙の太子・趙章様が預かりし後方部隊の者である。その方ら、商人と見受けるが一応積み荷を改めさせてもらうぞ」
隊長らしき壮年の男が、威厳のこもった声で言う。
「これはこれは、お勤めご苦労様でございます」
翠は馭者席から降り、
「私共は楊商会の者で、私は隊長を務めます翠と申します。どうぞご確認くださいませ」
趙兵達に向けてうやうやしく拝礼する。
うむ、と言って趙兵達は下馬し、一斉に散る。
「ここには娘が二人……商人か」
男が馬車の幌をまくり上げ、中でジッと座っている楽毅と楽乗の姿を確認する。
「同じ楊商会の仲間でございます」
翠の説明に小さくうなずくと男は、
「お前達も外に出よ」
と二人に促した。
言われた通り馬車を降りた楽毅達は、翠の隣りに佇む。
「隊長。積み荷は弩と鉄でした」
積み荷の確認を終えた兵士達が男の元に集い報告する。
「お前達は武器を扱うのか?」
「いかにも。楊商会は武器商でございます」
「若い娘が三人もおるが、物騒ではないのか?」
「私共はただの娘ではありません。私は一通りの武芸を叩きこまれており、そんじょそこらの男に決して遅れを取る事は無いと自負しております」
そして翠は隣りの楽毅を指し示し、
「この娘は羊毅と申しまして、類まれなる幸運の持ち主でございます。彼女のおかげで道中は野盗に襲われる事も無く、さらに天気は常に快晴で快適な旅を送れております」
と言い、次に楽毅の隣りの楽乗を指し示し、
「この者は羊乗と申しまして、ご覧の通り男勝りの体躯を誇り、暴れ狂う猛牛を素手で叩き伏せるほどの剛の者でございます」
などと平然とした顔で適当な言葉を並べるのだった。
楽毅は笑いを、楽乗は怒りをこらえてうなずいた。
楽姓では確実に怪しまれるので“羊”を偽名とする事は事前に打ち合わせしたとおりであったが、まさかこのような怪力乱神の者にされるとは二人とも思わなかっただろう。
「牛を素手で? そ、それはすさまじいな……」
翠の出まかせが功を奏し、趙兵達の好奇の視線は楽毅よりも楽乗の方へと向けられる。
「ど、どうも……」
楽乗は引きつった笑みを浮かべながら、その羞恥に耐えるのだった。
「それはそうとお前達。これより北は戦地であるが、一体どこへ向かうつもりだ?」
「中山国でございます」
「中山国だと⁉︎」
堂々たる態度の翠の口から何の躊躇も無く放たれたその言葉に、男達は驚き戸惑う。
「お前達、中山国が今、我が趙軍と交戦中と知って言っておるのか?」
「もちろんでございます」
趙兵達は拍子抜けし、ついには小さく固まってコソコソと相談を始める。
戦を仕かけている趙は当然武器を欲しており、武器商にとっては高値で売る好機であるはずだ。にも関わらず、彼女達がなぜ趙に武器を売らずにわざわざ危険を冒してまで劣勢にある交戦国に向かおうとしているのか、彼らには理解出来なかった。
しかし、ここで彼女らを邪険に扱い一方的に追い払ってしまうと、後々に商人の情報供給網によって趙の悪評が中華大陸中に広まり、商人が趙に寄りつかなくなるという恐れもあった。
「お前達、我々について来い。趙章様に裁断賜る」
男はそう言って再び馬に跨る。
結局、自分達では判断が下せないので上の指示を仰ぐ事にしたのだ。
──趙の太子・趙章をこの目に納める事が出来る。
楽毅はこれを幸運と判断し、敵将──引いては次の趙王となる男の器量を見定めてやろう、と自らを鼓舞するのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!