「いずれこうなると予想しておりました。ただ、その予想よりも早く趙軍が動いた。それだけの事でございます」
気を取り直し、楽毅は真剣な面持ちで伝える。
「ほう、すでに想定内であったか」
孟嘗君の口から感嘆が漏れる。
「武霊王は蛇の如く狡猾な人物ゆえに……」
楽毅は武霊王に対する印象を率直に述べた。
実際、武霊王は狡猾であり、そして野心家であった。
彼は若くして王位に就いてからこれまで盛んに兵を興し、趙の版図を着実に拡げてきた。
斉の湣王も野心家ではあるが、彼の場合はとにかく力押しの戦い方を好む。しかし、武霊王という人物は慎重に慎重を重ねてとことん理詰めてゆき、ここぞという時に一気に相手を併呑するという戦法を用いるのだ。
兵を興す前にはすでに大局は決しており、気づいた時にはもう彼の掌にある。ここに湣王との大きな違いがあった。
実際に、今回の中山国遠征への過程をたどってみればなお分かりやすいだろう──
そもそも、趙という国は昔から中山の地を欲していた。中山国の北にある代という大きな地を、趙は領土として治めているが、国都である邯鄲から代へ往来するにはどうしても中山国をぐるりと迂回しなければならない。
中山国を落とせば代へ直進できる、との思いが常に巡っていたのだろう。
さらに、中山国がまだ斉との交誼を保っていた頃、この斉と組んで趙を攻め勝利した事があった。
楽毅がまだ赤子だった頃の出来事だが、その時の恨みは武霊王にもしっかり継承されているのだ。
永きに渡る宿願を果たすべく、まず武霊王は最初に中山国と斉との同盟を切り崩すことを目論んだ。
まだ中山王が王号を称する前のことである──
中山公が傲慢で何よりも名誉を重んじる性格である事を突き止めた武霊王は、諜報員を用いて中山の重臣を丸めこみ、
「中山は立派な大国になられたのに、なにゆえ君は王を称されないのか」
と盛んにおだてあげた。
すぐにその気になった中山公は、同盟国である斉にうかがいを立てた。傲慢さでは引けを取らない斉の湣王は、小国が図に乗るな、と激怒。決してこれを認めようとはしなかった。中山公は斉王を恨んだが、この時点ではまだ、斉の機嫌を損ねる訳にはいかぬ、という自制がかろうじて働いていた。
しかし、そこに武霊王がすかさず、
「貴殿が王を名乗られるのであれば、趙は賛同致す」
と甘言を囁いたのだ。
これによって中山公の迷いは霧散し、趙とその同盟国である燕の賛同の下に中山王を正式に名乗った。当然斉はこれを認めず、ついには中山国との同盟を完全に破棄した。
斉という大国との誼より王個人の独善を選んだ中山国は、まんまと武霊王の策略に嵌ったのだった──
「ならば楽毅よ。その狡猾なる蛇に対抗するにはどうすべきか、オヌシの見解を聞きたい」
「……戦わずして勝つ。これが最良でございます」
楽毅は澱み無く答える。
孟嘗君は、ふむ、とうなずき、
「オヌシであれば、すでにその為の道筋を思い描いておる事じゃろう」
そう言って足を組み替える。
「武霊王が東を眺望した時、その視線は果たして中山国のみにとどまっていたでしょうか? 否、必ずその先にある斉を次なる標的として見据えていたに違いありません」
「そうであろうな」
「ならば、地理的に見て中山国は斉を護る盾となる。そうは思いませんか?」
「以前であれば、みなそう考えていたであろうな」
以前とは言うまでもなく、中山国と斉が同盟関係にあった頃の事を指す。
「中山国と結ぶ事は結果、趙に対する牽制となっていた。しかし、今の斉王にはそれが利とは映らなかったようじゃ」
苦々しい口調で孟嘗君は語った。
「斉王の目は今、南に向いておる。中山が存続しようが滅しようがどうでもよいのじゃろう。いや、憎き中山の危機をむしろ悦んでおるのかも知れぬ。武霊王の底知れぬ野心にも気づかず、のんきなものじゃ」
その武霊王の野心に気づいている者は、趙の重臣以外ではこの二人と孫翁くらいであろう。
「中山が滅したならば、我が斉の首元に匕首を突きつけられるようなもの。そんな状況はご免こうむりたいものじゃ」
そう言って懐から何かを取り出し、側に控える馮に手渡す。馮の手から楽毅に差し出されたそれは、一枚の竹札であった。
「これは?」
「ワシの名と花押がある。何かあった時、それを見せれば多少の融通が利くであろう」
それを受け取った楽毅がよく見てみると、確かに本名である田文姫の名と桃の花を象った花押が記されている。桃の花型は、彼女が好んで用いている印である。
「宰相という地位にありながら、ワシは何の力も持ち得ぬ。してやれる事といえばその程度しかない」
「とんでもございません。ここまでお心を砕いていただき、大変恐縮であります」
楽毅は床に頭をつけて礼を返した。
楽毅が孟嘗君に述べた、戦わずして勝つ──その最善の方法は斉との国交回復であった。
しかし、その為の最低条件として斉王は恐らく、中山王の王称撤回と謝罪を要求するだろう。そして、何よりも名誉を重んじる中山王がそれを呑むとは到底考えられなかった。
それを諌め説得するのが臣下の努めであるが、残念ながら楽毅も孟嘗君も、その言葉で驕慢な主君の心を動かすのは途轍も無く困難である事を悟っていた。
──やはり、孟嘗君でも斉王を説得するのは難しいようね。
思い返してみれば彼女は事あるごとに湣王への悪言を吐いていたし、両者の仲の悪さは巷間の噂にまでなる程なのだから無理も無い。
「中山国が斉の盾となれるよう、尽力致します」
やはり自分が中山王を説得するしかない、と感じた楽毅はその決意を胸に力強く言った。
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