大切な人が打ち拉がれている姿をこれ以上見たくはない。
そう思い至った楽乗はまっすぐに武霊王を見据え、
「ならば、趙は楽毅お姉様を家臣として重用し、将として一軍を授ける覚悟はあるのか⁉︎」
男にも負けない力強い声音で問う。
「主上に向かって何と無礼な!」
「口を慎め小娘!」
途端に周囲の家臣達がざわめき立ち、一斉に楽乗を非難する。
楽毅も翠も、彼女の言動に驚き目を剥いた。
「よかろう。娘よ、答えてやろう」
スッと右手を掲げて家臣達の雑音を制する武霊王。すると、水を打った様にその場がしんと静まり返る。
「先程も述べたが、確かに楽毅の才は認める。趙でこのような小細工を弄せる者は趙与くらいしかおらぬしな」
「それならば──」
それならば用いるのか、と口にしようとした楽乗を制し、
「しかし、俺は女が戦場に立つのを好まぬ。いや、嫌悪していると言ってもよい」
武霊王は切り捨てるようにそう言うのだった。
彼はおもむろに座り、足を組んでから、続けて言った。
「戦場だけではない。国政にずうずうしく口を挟む女も同じだ。胸くそが悪い。女は子を産み、男の背中を──家を守っておればよいのだ。それを何を勘違いしているのか、孟嘗君などに憧れて男の仕事に割って入る女が増えている。愚かしい事だ」
武霊王のその言葉は、彼が嫌う女の生き方をしている楽乗にとって頑迷固陋な思考であり、到底受け入れられるものでは無かった。しかし、それ以上に彼女が絶望した理由は、武霊王には楽毅を用いる気が無いという事実だった。
もしも武霊王が楽毅の才を正当に評価し、それに見合った要職を与えるのなら、楽毅は趙に行くべきだ、と楽乗は本気で考えていた。諫言に一切耳を貸さず忠臣を平然と退ける中山王の元にいるより、その才能を遺憾無く発揮出来る国に仕えた方が彼女にとって幸せなのでは、と。
「……なぜ。用いるつもりも無いのに、わたしを欲しているなどとおっしゃったのですか?」
絞り出す様に、ようやく楽毅が声を発する。
「俺が貴様を欲している理由か? そうだな……」
武霊王は顎髭を撫でながらしばらく考えると、まとっている厚手の衣の内側から何かを取り出してみせる。
「それは⁉︎」
楽毅は、ハッと声を上げた。
武霊王の手のひらにあったものは、孟嘗君がかつて彼女に見せた事のあるコの字型をした玉──【八紘の宝珠】であった。ただひとつ違うのは、孟嘗君のものは桃色をしていたのに対し、武霊王のそれは紫紺色であるという点だけだ。
「この玉は、昔、俺が魏を探索した時にそこで偶然発見したものだ。形状が珍しいという事もあったが、まるでこれに引き寄せられるようにして手に入れた。そう、この玉が俺に語りかけてきたのだ。『我の力を使え』、とな」
おかしいと思うか、と武霊王が問う。
楽毅は静かにかぶりを振った。
孟嘗君も、宝珠によって運命を狂わされたと語っていた。二つの宝珠の関連性は不明だが、彼の言葉を頭ごなしに否定する事は出来なかった。
楽毅の反応が意外だったのか、武霊王はひとつ笑みをこぼしてから再び語り出した。
「俺はその力を受け入れた。この地の覇権を──中華大陸を手中に収める為に。俺は、この玉に──【八紘の宝珠】に選ばれたのだ。実際、他の者にもコイツを持たせてみたが、何の反応も示さなかったからな。そして、俺はその声に従い戦いに明け暮れた。コイツを手に入れてからの俺は連戦連勝だった。十数年の内に願望は成就される……はずだった。貴様という障害が現れるまではな」
刹那、野生の本性剥き出しの鋭い眼光が楽毅に突き刺さる。
「俺はな、貴様が中山国にいる限り──いや、俺の敵として立ちはだかる限りひと時として安心出来ないのだよ。だから楽毅よ。俺と趙に来ぬか? 家臣として召し抱える事は出来ないが、愛妾としてなら傍に仕えさせてやる。いや──」
再び立ち上がると武霊王は早足に楽毅の前まで赴き、彼女の手を取り、
「ぜひとも俺の傍にいて欲しい。俺の背中を支えて欲しい」
憂愁を帯びた子供のような瞳で請うのだった。
ともすれば愛の囁きとも受け取れるその言葉に、楽毅のみならずその場にいた全ての者が色めき立った。特に楽毅を敬愛してやまない楽乗は気が気ではなく、顔を真っ赤にさせながらワナワナと肩を震わすのだった。
──わたしは……どうすればいいの?
主君に裏切られ、敵の王に女性として求められた楽毅。その心の中ではモヤモヤとしたものがグルグルと目まぐるしく渦巻いて、気持ちがうまくまとまらない。
『運命に身を任せるもよし。抗うもよし。じゃが、その答えを急いてはならぬぞ。ワシとて、いまだどうすべきか道を見出せておらぬ。迷い、悩み、とことんまで考え抜くのじゃ』
ふと、齋和の言葉が頭を過ぎる。
彼女はどうにもならない運命の荒波に揉まれながらも、その生き様は常に自然体であった。
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