「……なぜ、アレクサンドロス大王があれほどまでに版図を拡げることが出来たか……わかるか?」
「その宝珠の力……ですか?」
楽毅の返答に、楽峻は満足げにうなずいた。
「……アレクサンドロス大王は、この紅い宝珠の力を解放することが出来た。そして、世界に散らばっているという、同じような力を持つ宝珠を求め……大遠征を行った。だが、その途中でアレクサンドロス大王は死んだ……。その後は、大王の家臣同士が血で血を洗うおぞましい争いを繰り広げた。いや、今も繰り広げているそうだ……。彼らが真に求めていたものは領土ではなく大王の遺産……つまり、この宝珠なのだ。しかし……どういう訳かこの宝珠は、特定の者──アレクサンドロス大王の血族にしか力を示さないそうだ。だから大王の家臣たちはこぞって大王の血族を引きこもうとした。操り人形としてな……」
宝珠は特定の者にしか力を示さない──
同じく宝珠の所有者である孟嘗君と武霊王も、同じことを言っていた。
「……スタテイラには、同じ名を持つ母がいた。それがアレクサンドロス大王の妃の一人だった訳だが……。ある時、彼女は戦乱の原因となっているこの紅い宝珠を持ち出し、大王の家臣たちの手の及ばぬ所まで逃げようと試みたそうだ……。大王の血族に忠誠を誓った忠臣に守られながら、ひたすら東へと逃走した。しかし……彼女は凶手によって殺されてしまったそうだ。たったひとり、アレクサンドロス大王の血を継ぎ、自分と同じ名を授けた娘を──お前たちの母親を残して……」
楽峻はひとつ深呼吸を入れて、再び語り出した。
「……まだ赤子だったスタテイラは、この紅い宝珠と共に、忠臣に護られながら逃避行を続けていた。二十年もの間、追っ手の目を逃れながら、一所に留まること無く彷徨い……そして、私たちは出会い、お前たちが生まれた……。だが、楽間が生まれて間もなく、彼女は私に言ったのだ。敵が……宝珠と彼女を狙う組織の者がこの中華大陸にまで及んでいる、と。そして、スタテイラは──赤蘭は私たちの前から姿を消した……」
その時、楽峻の体がグラリと崩れる。
「父上!」
楽毅はとっさに父の体を支える。
「彼女は……本当は死んでなどいない。自らここを離れたのだ……。私たちに危険が及ばぬように……」
今まで欺いてすまなかった、と楽峻は息も絶え絶えに謝辞を示す。
楽毅はこの時、ようやく気づいた。
父が頑なに母に関する話を避けていた訳を──
これまでずっと楽毅と楽間を邸内に留めさせ、極力外の目に触れさせないようにしていた訳を──
それは、紅い宝珠とアレクサンドロス大王の血を継ぐ幼き楽毅たちを凶手の手から護るためだったのだ。
「お前たちにはこれまで……辛い思いをさせてしまった……」
楽峻は震える手で宝珠を差し出す。
「……そんな私がこんなことを言えた義理でないのは分かっている。鬼畜の父と蔑んでくれて構わない。ただ、これだけは……赤蘭が命を賭して護ろうとしたお前たちに……この宝珠を受け取ってほしい。そして、悪しき者にこれが渡らぬよう、護り抜いてほしい……」
手を伸ばしかけた所で、楽毅は逡巡した。
孟嘗君はかつて、宝珠のせいで自分の運命は大きく変わってしまった、と言っていた。そして、武霊王は宝珠の力を利用して領土を広げてきた、と言っていた。
本来ここにあってはならぬもの──
時代を超越した知識と情報の結晶──
それほどまでに強大な力を手にすることに対する恐れが、彼女を躊躇わせる。
果たして、それを受け入れるだけの覚悟が、自分にあるのだろうか?
自分の力がこの世界においてどれだけ通用するのか知りたい──
そんな想いが、この宝珠によって暴走したら、ただやみくもに戦火を拡げる武霊王と同じになってしまうのではないだろうか?
「……楽毅、お前になら出来る。この戦乱を治め、ひとりでも多くの者が笑顔になれる国を創れると……」
楽峻の声が、吐息が、次第にか細くなってゆく。
迫りくる最期の時を感じた楽毅と楽間は、止めど無くあふれる涙を拭おうともせず、彼の手を強く握り締めた。
「……楽間よ。いつまでも姉と仲よくし、お互い支え合うのだぞ」
「はい、父上!」
顔をぐちゃぐちゃに乱しながらも、楽間は力強く答えた。
「……楽乗。……翠。どうか、この二人を支えてほしい……」
「「……はい!」」
勝気な楽乗も、冷静な翠も、目に涙を浮かべながら気丈に答えた。
みんなの言葉を聞き、安心したようにほほ笑むと、楽峻は虚ろな瞳を宙に漂わせ、
「……せき…ら…………」
途切れ途切れに呟く。
やがて瞳がゆっくりと閉ざされ、握られた手から力が失せる。
「……父上?」
楽毅の言葉に、もう彼が応えることは無かった。
最期は満ち足りた安らかな笑みを浮かべ、楽峻はその生涯を閉じたのだった。
「父上! 父上ェェェェェェェッッッ‼」
残された者たちの悲痛の叫びが谺する。
中山国の忠臣であり、楽毅たちの精神的支柱であった楽峻の損失は、国にとっても彼女たちにとっても、あまりに大き過ぎる痛手であった。
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