趙兵達に随行することおよそ一時間──
楽毅達の目の前に、勇壮に立ち並ぶ人馬の群れが現れる。趙の後方部隊だ。
ざっと見ただけでもその数は五千を優に超えているように思われた。
──少し先には東垣の邑がある。なのに、ここにこれだけの軍勢が待機している。
楽毅は、趙軍の東垣攻めが見せかけである事を確信した。
趙軍の偵察部隊に連行された一行はそこで待機させられ、楽毅達三人は将校の集う帷幕の前で待たされた。
「中山に向かう武器商人だと?」
けだるそうな声を発しながら、ひとりの青年が二人の男を伴って帷幕の中から現れる。
「コイツらか、戦地にノコノコとやって来た命知らず共は」
青年は蛇の如く冷酷な眼差しで楽毅達を一瞥すると、吐き捨てるような口調で言った。
「はッ、太子様!」
趙兵が片膝をついて拝礼を向ける。
楽毅達もそれに続く。
──この男が趙の太子……趙章。
楽毅から見たこの青年に対する第一印象は最悪であった。
まず、楽毅達を見る目に明らかな侮蔑があった。
そして次に声。大の大人にしてはかなり甲高い上に聴き取りづらく、心に全く響かない。
──甘やかされて育った典型的なお坊ちゃん。大事を図る器量も無いクセに自意識過剰。神経質で事がうまく運ばないとすぐに癇癪を起こす。とてもじゃないけれど、王の器ではない。
それが楽毅の下した評価だった。
「わざわざ危険を冒してまで中山国に入ろうとする。これは怪しいですぞ、太子」
趙章のすぐ脇に寄りそうように控える壮年の男がそう告げる。この男も、輪をかけた様に楽毅達を見下していた。
「そうだな。では田不礼よ、コヤツらの処置は全てそちに任せる」
趙章はそう言うとさっさと踵を返し、大口を開けてあくびをしながら帷幕の中へと引っこんでしまった。
その背中を見送った後、田不礼と呼ばれた男はカエルのようにギョロっと剥き出した目を楽毅達に向け、
「さて、お前達にいくつか問いたい」
と低いダミ声で言った。
「お前達は武器商人でありながら何故大国である我が趙に武器を売らず、蛍光の如くか弱き小国の中山へ向かおうとしてのだ?」
「それは……」
翠は返答に窮した。
なぜなら彼女自身、主人である楊星軍が趙の貴族ではなく金も権力も無い楽毅を相手に捨て値同然の取引を行ったのか理解に苦しんでいたからだ。
「その理由はアナタのお言葉どおり、趙が大国であり、中山が小国であるからです」
代わりに凛とした声で答えたのは楽毅だった。
「何? どういう事だ?」
田不礼は眉間に皺を寄せながら首をひねる。
「戦を起こした趙が武器を欲するのは自明の理。確かにアナタ方に売れば我々は利を上げる事が出来たでしょう」
「しかし、お前達はそうしなかった」
「では逆に問います。連戦連勝で破竹の勢いの趙と、青息吐息で孤立無援の中山国。果たして今、どちらがより高値で武器を購入してくださるでしょう?」
「それは……」
趙だ、とは答えなかった。
確かに趙には潤沢な資金があるが、大金を出してまで武器を欲する程現状は逼迫している訳ではない。
一方、中山国は今頃軍備の強化に大わらわであり、そこに大量の武器が持ちこまれれば全ての国費を投げ打ってでも購入するだろう。それだけ中山国は切羽つまっているはずなのだから。
「なるほど。ワラにも縋りたい弱者の心理を突き、巨額の利を巻き上げる。実に商人らしい小狡いやり方だ」
田不礼は、なるほどと感嘆する一方で、やはり商人は信が置けない、という固有の感情を再認識するのだった。
「こちらへと向けられる刃をむざむざ敵に与えるのは忍びない事だが、まあ融通してやらんでもない」
田不礼はそう言って人差し指をくいくいと上下させる。
「はい。不礼様のご厚意、感謝致します」
彼が何を欲しているのか察した翠はすかさず歩み寄ると、懐から重量感のある巾着袋を取り出し、そっと差し出した。
「よろしい。通行を許可しよう」
それを自らの懐に納めた男は満足げな笑みを浮かべ、
「もうじき夜になる。今夜はここで休まれるがよかろう」
態度を豹変させて妙に優しい言葉をかけるのだった。
──己の立場を利用して弱者から利をむさぼる。アナタの方がよっぽど悪徳商人だわ。
そんな男の姿に楽毅は嫌悪感を抱いた。
「では後の事は任せましたぞ、趙与どの」
先程からずっと眠たげな顔のまま呆っと佇むもうひとりの男にそう告げ、田不礼は帷幕の中へと消えていった。
「了解しました」
静かな声で男は不礼を見送った。
──チョウヨ? それじゃあ、この人が⁉︎
聞き覚えのある名を耳にした楽毅は必死に動揺を押し殺す。
趙与──
それは趙国の将軍であり、また、楽毅が臨淄で出逢い共に兵法を学んだ親友・趙奢の父でもあった。
楽毅の父と同じくらいの年齢。それに、どこか飄々としたその雰囲気も以前齋和が語っていた特徴と合致している。
どうやら間違い無いようだ。
「いや~ぁ、先程はすみませんでした。コワイ思いをされたでしょう」
不礼の姿が完全に見えなくなるや否や、趙与は途端に態度を豹変させ、武将とは思えないくらいの柔和な言動を彼女達に向ける。
「太子も不礼どのも決して悪気がある訳では無いのですよ。ただ、これが私共の務めでして」
「もちろん、それはこちらも了承しておりますし、ワガママを言って迷惑をかけているのはわたし共の方です。どうかお気になさらずに」
楽毅の言葉に、左様ですか、と趙与はまるで自分の子供にでも向けるような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「もう夜になります。空いている天幕がありますので、今夜はそちらでお休みください。それと、食事もこちらでご用意させます。まあ、戦地ですのでロクなものは出せませんが」
趙与はボサボサに乱れた自分の髪をクシャクシャとかきながら苦笑する。
「丁寧なお心づかい、感謝致します」
楽毅は趙与の優しさに感激すると同時に、
──わたしはこれからこの人と戦わなければならない。
戦国という時代の非情さを呪わずにはいられなかった。
その日の夜──
楽毅と楽乗と翠の三人は、趙与が設置してくれた天幕の中で枕を並べた。
食事も趙与が運んでくれた。羹と干し肉は最高の戦場食であり、彼女達は体の芯から温まる事が出来た。
「なぜ、ここまでしてくださるのですか?」
楽毅の口から、自然とそんな言葉が出ていた。
それに対して趙与は、
「私には貴女達と同じくらいの歳頃の娘がおりましてね。何となくおせっかいを焼きたくなるのですよ」
どこか頼り無さげな、しかし父の情愛を感じさせる穏やかな笑みで答えたのだった。
──わたしはその娘さんと──趙奢とお友達なのです。そして、アナタの敵です。
楽毅はそう伝えたい衝動を必死にこらえた。そんな事をすれば、これまでの苦労は全て水の泡だ。
趙与の優しさは、楽毅の胸にどうしようもないやるせなさをもたらすのだった。
「……あの、楽毅どの?」
夜も深まり、三人そろって床に就いた頃、翠が小声で話しかける。
「どうしました?」
「先程は助け舟を出していただき、ありがとうございました」
翠は、田不礼の問いにすぐに答えられず、結果楽毅に助けられた事に対して礼を述べる。
「先程? ……ああ、あの無礼な人の事ですか」
不礼と無礼が掛かっている事に気づいた楽乗が、その横で必死に笑いをこらえている。
「実はわたし、邯鄲で楊どのに武器を中山国へ持ちこむ事を伝えた時、彼はわたしに言ったのです。『商売上手だ』、と。その時はなぜそう言われたのか分からず、ずっと考えていたのです」
「つまり、その答えが先程の不礼に対する返答だ、と?」
恐らくは、と言って楽毅は横になった体勢のまま小さいうなずいた。
「もちろん、わたしは商売の為に武器を中山国へ持ち込むワケではありませんが、もしかしたら楊どのは商売人としてそうすべきだったと思われたのかもしれません」
「……参ったな」
それを聞いた翠が、感嘆のため息を漏らし、
「私はずっと前から楊様のお側に仕えてきたにも関わらず、たった一度会っただけの楽毅どのの方がより深く楊様の事を理解してらっしゃる……」
多少の嫉妬もこめてそう言うのだった。
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