太子との謁見当日──
楽毅は姿見の大鏡の前で悪戦苦闘していた。
「あの、楽乗さん。さすがにこれはちょっと華美過ぎるのではありませんか?」
赤を基調とした布地に花柄や蝶柄がたくさんあしらわれた上衣をまとった自分の姿に、戸惑いと恥じらいを禁じ得ない。
「いいえ、とてもお似合いですよ、お姉様。翠もそう思うだろう?」
「……はい。おキレイです、お姉さん」
着付けを手伝っている楽乗と翠が笑顔で励ます。
楽乗は昨晩工人達から、楽毅が逢引きをするらしいと伝え聞いて大暴れしていた。一体どこの馬の骨がお姉様を誑かした、と凄まじい剣幕であったが、相手が太子と知るや否や怒りのやり場を失い、今はこうして大人しく楽毅を応援するのだった。
「そ、そうかしら? ありがとう……」
楽毅はぎこちなく笑った。
下着も含めればもうかれこれ十着以上の試着をこなした疲れもあるが、やはり緊張感による精神的疲労の方が大きかった。
太子という高貴の者に拝謁するだけでも神経を使うのに、その太子は眉目秀麗と評判の若い男性だ。歳の近い異性とろくすっぽ話もした事の無い楽毅にとって、これはかなり難易度の高い試練と言えるだろう。
それに──
『太子を堕とせ』
という昨日父から言われた言葉がずっと頭をもたげて離れなかった。
──そう言えば、齋和にも言われたっけ……。
『オヌシが中山国太子の正妻となってこれを操り、愚昧な王を放逐させるしかないのう?』
この前の夏、黄海の海岸で海水浴をした時に齋和、趙奢、田単の三人に茶化された事を思い出し、自然と笑みがこぼれる。
「その笑顔、いいですね。とてもステキです、お姉様」
楽乗の言葉に、視線を正面に戻す。鏡に映る少女の唇に今ちょうど薄い紅が点され、淡い桃色に染まる頬とあいまって楚々とした彩りを添えるのだった。
化粧を終え、すべての身仕度は整った。
「そろそろ準備は出来たか?」
その時、楽峻と楽間が部屋を訪れた。
楽毅は立ち上がり、ゆっくり振り返ると、
「はい。すべて整いましてございます」
涼やかな声で答えた。
艶やかな娘の姿に、楽峻は思わず言葉を失い、しばしの間ぼうっと見惚れていた。
「どうか致しましたか、父上?」
「……あ、いや、とてもキレイだ」
娘の言葉にハッと我に返った楽峻が、心からの賛辞を送る。
「ええ、本当におキレイです、姉上!」
楽間も、姉の艶姿に心を躍らせる。
「ありがとうございます。でも……何だか照れてしまいます」
気恥ずかしさに頬をさらに赤く染める楽毅。
「まるで赤蘭が帰って来たみたいで驚いた」
まるで何かを懐かしむかの様にゆったりとした口調と慈愛の眼差しで、楽峻は娘をじっと見すえる。
赤蘭は、楽赤蘭──楽毅と楽間の母の事である。
「その上衣も、昔、赤蘭が着ていたものなんだ……」
「母上の?」
楽毅は赤が映える上衣をフワリとひるがえす。
朧げな記憶の中にしかいなかった母と触れ合えた様な気がして──母の腕に包まれている様な気がして、楽毅は胸の中に温い光が降り注いでいる様な、そんな夢心地になれたのだった。
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