「楽毅は残るように」
この日の講義が終わり、みなが帰り仕度を始めたその時、隠然とした口調で孫翁が告げた。
楽毅は驚きの面持ちを見せるが、すぐに何かを悟った様に平静を取り戻すと、
「はい」
と、澱み無く返答した。
一瞬室内が静止したかの様にみながその動向に注視していたが、楽毅の返事を皮切りに再び慌ただしく動きだす。
帰り際、趙奢と田単が楽毅の方を瞥見するが、そのまますぐに教室を後にした。
「先生、どういった御用向きでしょうか?」
教室から他の門弟がすべて去ってから、楽毅は孫翁のすぐ前の席に座し、うやうやしく問う。
「ん……まあ、特に用と言う程のものでも無いのだが」
視線を宙に漂わせながら、不明瞭な物言いで答える孫翁。
ムダを好まずいつも快刀乱麻を断つような言動の彼にしてはめずらしい口調であった。
「趙奢や田単と何かあったか? 最近どこかよそよそしい様に見受けられたのだが」
師の言葉に楽毅の表情が曇る。
「オヌシら三人はいつも率先して門弟達を引っ張ってくれた。しかし、夏の休暇から帰って来た頃からだろうか、お互い避けている様に感じたのだ」
──先生はすべてお見通し、か。
楽毅は苦笑し、やがて観念した様に語り出した。
「先生のお気づかい、真に痛み入ります。たしかに、今わたし達は微妙な関係にあります。しかし、これはわたし達三人の気持ちの問題でございます」
「そうか。うむ、そうであるなら私が出張る事では無いな」
孫翁は納得した様にしきりにうなずいた。
──先生の態度、やはりおかしい。
どうも普段とは違う師の所作に不審を感じた楽毅は、
「先生、本題は他にあるのではありませんか?」
と切りこんだ。
その言葉に孫翁は一瞬驚いたように眉を上げるが、すぐに破顔し、
「そのとおりだ、楽毅」
と観念したように答えるのだった。
「しかし、オヌシら三人の関係を心配したのも事実だ」
「ありがたいことでございます」
師の言葉に楽毅は|拝手《はいしゅ》で返す。
そして孫翁はいつもの厳しい顔つきに戻ると、
「……趙の武霊王が中山国に兵を向けたそうだ」
感情の無い静かな声でそう告げた。
「……やはりその件でしたか」
しかし楽毅の顔に驚きや衝撃はなく、むしろそれを予見していたかのような穏やかな口調であった。
「ほう。その口ぶりでは、すでに知っておったということか?」
「つい昨日の事ですが、臨淄でなじみとなった行商人から伺いました」
「ふむ……私は今朝知った。諜報には多少の自信を持っておったのだが……商人の情報供給網、やはり侮れんな」
一驚と共に若干の悔しさもにじませながら、孫翁は呵々と笑った。
「しかし、齋和……孟嘗君はもっと早く耳にしている事でしょう」
「孟嘗君の食客は中華大陸全土に及ぶと聞く。さもありなん」
ひと息入れてから孫翁は楽毅の碧眼をジッと見据え、
「……行くのか?」
と一言問う。
「……はい」
師の言葉に楽毅はわずかに悲哀をにじませるが、まっすぐな眼差しと共に返答した。
「もう覚悟は決めていた、という事か……。いつ臨淄を立つ予定だ?」
「三日後に」
「そうか。さみしくなるな……」
窓の方に顔を向けて、孫翁がため息と共に呟く。
ちょうど顔の上部に斜陽が差しており、楽毅の目からは霞んで見えたが、無数のシワが刻まれた細面は悲哀に歪んでいた様に思われた。
「学業を断念せねばならぬ事、まさに断腸の思いでございます」
こうべを垂れ、楽毅は慙愧の念を露わにした。
そして翌日、孫翁の口から楽毅の帰国が門弟達に伝えられたのだった──
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