七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
チーム奇人・変人

第2話 真に痛み入ります

公開日時: 2020年12月10日(木) 19:03
文字数:1,416

楽毅がくきは残るように」


 この日の講義が終わり、みなが帰り仕度を始めたその時、隠然とした口調で孫翁そんおうが告げた。


 楽毅がくきは驚きの面持ちを見せるが、すぐに何かを悟った様に平静を取り戻すと、


「はい」


 と、よどみ無く返答した。


 一瞬室内が静止したかの様にみながその動向に注視していたが、楽毅がくきの返事を皮切りに再び慌ただしく動きだす。

 帰り際、趙奢ちょうしゃ田単でんたん楽毅がくきの方を瞥見べっけんするが、そのまますぐに教室を後にした。


「先生、どういった御用向きでしょうか?」


 教室から他の門弟がすべて去ってから、楽毅がくき孫翁そんおうのすぐ前の席に座し、うやうやしく問う。


「ん……まあ、特に用と言う程のものでも無いのだが」


 視線を宙に漂わせながら、不明瞭な物言いで答える孫翁そんおう

 ムダを好まずいつも快刀乱麻かいとうらんまを断つような言動の彼にしてはめずらしい口調であった。


趙奢ちょうしゃ田単でんたんと何かあったか? 最近どこかよそよそしい様に見受けられたのだが」


 師の言葉に楽毅がくきの表情が曇る。


「オヌシら三人はいつも率先して門弟達を引っ張ってくれた。しかし、夏の休暇から帰って来たころからだろうか、お互い避けている様に感じたのだ」


 ──先生はすべてお見通し、か。


 楽毅がくきは苦笑し、やがて観念した様に語り出した。


「先生のお気づかい、真に痛み入ります。たしかに、今わたし達は微妙な関係にあります。しかし、これはわたし達三人の気持ちの問題でございます」

「そうか。うむ、そうであるなら私が出張る事では無いな」


 孫翁そんおうは納得した様にしきりにうなずいた。


 ──先生の態度、やはりおかしい。


 どうも普段とは違う師の所作に不審を感じた楽毅がくきは、


「先生、本題は他にあるのではありませんか?」


 と切りこんだ。

 その言葉に孫翁そんおうは一瞬驚いたように眉を上げるが、すぐに破顔し、


「そのとおりだ、楽毅がくき


 と観念したように答えるのだった。


「しかし、オヌシら三人の関係を心配したのも事実だ」

「ありがたいことでございます」


 師の言葉に楽毅がくきは|拝手《はいしゅ》で返す。


 そして孫翁そんおうはいつもの厳しい顔つきに戻ると、


「……ちょう武霊王ぶれいおう中山国ちゅうざんこくに兵を向けたそうだ」


 感情の無い静かな声でそう告げた。


「……やはりその件でしたか」


 しかし楽毅がくきの顔に驚きや衝撃はなく、むしろそれを予見していたかのような穏やかな口調であった。


「ほう。その口ぶりでは、すでに知っておったということか?」

「つい昨日の事ですが、臨淄りんしでなじみとなった行商人から伺いました」

「ふむ……私は今朝知った。諜報には多少の自信を持っておったのだが……商人の情報供給網ネットワーク、やはり侮れんな」


 一驚と共に若干じゃっかんの悔しさもにじませながら、孫翁そんおう呵々かかと笑った。


「しかし、齋和さいか……孟嘗君もうしょうくんはもっと早く耳にしている事でしょう」

孟嘗君もうしょうくん食客ファンは中華大陸全土に及ぶと聞く。さもありなん」


 ひと息入れてから孫翁そんおう楽毅がくき碧眼へきがんをジッと見据え、


「……行くのか?」


 と一言問う。


「……はい」


 師の言葉に楽毅がくきはわずかに悲哀をにじませるが、まっすぐな眼差しと共に返答した。


「もう覚悟は決めていた、という事か……。いつ臨淄りんしを立つ予定だ?」

「三日後に」

「そうか。さみしくなるな……」


 窓の方に顔を向けて、孫翁そんおうがため息と共につぶやく。

 ちょうど顔の上部に斜陽が差しており、楽毅がくきの目からは霞んで見えたが、無数のシワが刻まれた細面ほそおもては悲哀に歪んでいた様に思われた。


「学業を断念せねばならぬ事、まさに断腸の思いでございます」


 こうべを垂れ、楽毅がくき慙愧ざんきの念をあらわにした。



 そして翌日、孫翁そんおうの口から楽毅がくきの帰国が門弟達に伝えられたのだった──

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