中山国は中華大陸の北東──河北に位置し、その西と南北を包みこまれるような形で趙と隣接し、東は燕に接した小国である。
中山国の歴史は浅く、独立国家として樹立したのは楽毅が生まれる数十年程前であった。
しかし、中山国は当時隆盛を極めていた中原の雄・魏によって攻め滅ぼされてしまう。
その中山遠征を見事に成し遂げた魏の将軍が楽羊であり、彼こそが楽毅の先祖にあたる人物であった。
ちなみに、楽毅達が趙兵を欺く為に用いた偽名の“羊”は彼の名から取られたものである。
楽羊は魏王から霊寿の地を所領として賜り、そこに移り住んだ。
さて、それからしばらくすると今度は趙が、魏と中山領を結ぶ地を盛んに侵略し始めた。このまま中山領を維持するのは困難と感じた魏は遂にこれを放棄し、一度は滅んだ中山国は、周王朝の公子を君主として迎え入れ、再び独立を果たした。
元々は魏の臣下だった楽一族もそのまま中山国に仕え、代々将軍の要職を努めることとなったのだ。
霊寿の目抜き通りを東に入ってすぐの所に、楽氏の邸宅はある。
その門前に、八台にも及ぶ幌馬車の群れが乗りつける。
先頭の馬車の中から、燃えるような紅い髪をなびかせ、宝石を思わせるきらびやかな碧い瞳を備えた少女が、ふわりと羽のように軽やかに降り立つ。
「ようやく帰ってきたのね……」
以前と変わらぬ自宅の在り様に、紅毛碧眼の少女──楽毅は感慨深げにつぶやいた。
「楽毅お姉様がここを発たれてから、もう一年半にもなりますからね。どうですか? お懐かしいでしょう?」
彼女の後から馬車を降り立った黒髪の大柄な少女──楽乗が彼女の肩に手を置き、そう訊ねる。
「ええ……」
門の傍らで存在感を放ち悠然と佇む一本の箱栁の巨木。
幼い頃は父親の言いつけで屋敷に軟禁状態だった楽毅。そんな彼女を元気づけようと、楽乗は彼女を連れ出し、あの木を登って邸宅の外へと脱走した事がある。
──ホント、懐かしいわ。
一年半という歳月が長いか短いかはその者の感性によるところが大きいだろうが、少なくとも臨淄へ出立する前に見上げた情景と今目の前にある情景は同じであるはずなのに、楽毅の胸に去来する感情は全く異なるものであった。
随行した人夫達が、門閾に積み荷である楚鉄と弩を降ろし終える。
「楽毅どの。これで私共の仕事は終わりましてございます」
隊商の頭である楊商会の少女──翠がうやうやしく拱手を向ける。
「翠さん、ありがとうございました。アナタ方のおかげでこうして無事に帰国する事が出来ました」
楽毅は名残惜しそうに小柄な商人の娘に労いの声をかける。
「いいえ、私は商人としての努めを果たしたまでです」
淡々とした口調で答える翠。しかし、初めて会った頃よりも些かではあるが顔の表情から硬さが消え、年相応の少女らしさが垣間見られるようになっていた。
「大したおもてなしは出来ませんが、どうかわたしの家で休んでください。よろしければ、好きなだけ滞在なさっても……」
そう言いかけた楽毅であったがすぐにかぶりを振り、
「そういうワケにもいきませんでしたね。そちらにもご都合があるでしょうし」
今が戦時下である事を思い出し、自重する。
「……あのッ!」
翠が珍しく大きな声量で言葉を発すると、
「ご厚意に甘えさせていただくついでに、もうひとつお願いを聞いていただきたいのですが」
細いが力強い眼差しで楽毅を見すえる。
「何でしょう?」
「私を……このまま楽毅どのの下に仕えさせていただくワケにはいかないでしょうか?」
「え?」
思いも寄らぬ提案に、楽毅は一驚する。
「今回の旅で楽毅どのからとても不思議な魅力を感じました。温かくて、眩しくて、まるで陽だまりの中で微睡んでいるような……そんな充足感です。私は、その魅力の正体を知りたいのです」
いつに無く熱のこもった言葉が楽毅に向けられる。
「わたしには、そんな魅力を持っているという自覚はないのだけど……」
楽毅は思わず苦笑した。
「それに、本来のお仕事の方はどうするの? 楊星軍どのが何とおっしゃるか」
「楊様には休暇という事で、人夫の方々に伝えていただきます」
「そう……。そこまで考えているのなら、分かったわ。これから毎日のように戦場を駆ける事になると思うけど、ぜひアナタの力をお貸しください!」
許諾の意を告げ、翠の手を両手で包みこむ。
「ありがとうございます」
翠は深々と頭を下げ、楽毅の手を同じように両手で包む。
「私はアナタの事はあまり好きではないが、お姉様がそうお決めになったからには歓迎する」
少しふてくされている感も否めないが、それでも楽乗はスッと手を差し伸べ、彼女を受け入れる。
「それでいい。よろしく頼むわ、楽乗どの」
翠は小さく笑ってそれに応えた。
「今日から翠さんもわたし達家族の一員ね。妹が出来たみたいでうれしいわ」
にこやかな笑みを浮かべる楽毅。
妹ならここにいるではありませんか、という言葉が喉から出かかった楽乗であったが、実際はただの従妹に過ぎず、なおかつ自分の方が段違いに長身でこれっぽっちも妹要素が無いという現実を痛感して泣く泣くそれを呑みこむのだった。
「あの、楽毅どの……。どうかこれからは翠と呼び捨てになってください」
「それもそうね。わかったわ、翠」
そう呼ばれて、翠は少しだけ照れ臭そうにはにかんだ。
「じゃあ、わたしの事もこれからは、お姉ちゃん、て呼んでね?」
「「……え?」」
楽毅のこの提案には、翠だけでなく楽乗も戸惑いの色を隠せなかった。
「ほら、呼んでみて」
「いや、さすがにそれはちょっと……」
にこやかな笑顔を近づけてそう迫る楽毅に、翠はたじろぐばかりだった。
「ダぁ~メッ! そう呼んでくれなきゃ置いてあげないんだから」
なかなかその言葉を口にしてくれない翠に、楽毅は不満そうに口を尖らせる。
「お……お、おね……」
どこか理不尽なものを感じながらも、翠は顔を赤らめながら恥を忍び、必死にそれを口にしようと試みるが、
「お……お姉……さん。楽毅お姉さん」
口の端をヒクヒクと引きつらせながらそう言うのが限界であった。
「……ま、いいわ。よろしくね、翠」
やや渋い表情をしていた楽毅も、納得したように再び笑顔に戻る。
翠はホッと安堵のため息を吐くのだった。
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