一時間後──
邯鄲の北門にぞろぞろと幌馬車が群れる。
大量の鉄と弩を積んだ馬車の数は全部で八台にも及び、集められた人夫も三十人あまり。もはや立派な隊商である。
「楽毅どのにご紹介致します」
楊はそう言って楽毅達の前にひとりの少女を招き寄せ、
「この者は楊商会の一員で、翠と申します。この者を隊長として同行させますので、何でもお申しつけください」
そう告げる。
「……翠です。よろしくお願い致します」
そう言って少女はうやうやしく一礼する。
歳は楽毅達とあまり変わりないようだが、特に手入れもされていない短めの髪と細面なその顔立ちは地味であり、また、どこか陰を感じさせるものであった。
「わたしは楽毅。そしてこちらが楽乗です。どうかよろしくお願いします」
楽毅の言葉に軽く会釈を返すと、翠はさっさと馬車の方へと歩き出してしまう。
「無愛想な娘で申し訳ございません。ですが、翠はああ見えてなかなか腕が立ちますし、機転も利きます。必ずやお役に立ちましょう」
楊は苦笑交じりに頭を下げる。
「かなりの腕前である事は、歩き方を見ただけでも分かります」
少女の隙の無い挙措を見送りながら、中山国を代表する武人である楽乗が感嘆交じりに呟く。
「同じ女性同士で歳も近いようですし、どうか仲良くしてください」
「かしこまりました。これほどまでに心を砕いていただき、感謝の言葉もございません。このご恩は、いつの日か必ずお返し致します」
「その時を楽しみにお待ちしております」
そう言い残して、楊は踵を返し街中へと戻って行った。
「あの方も相当の手練れですね。今の私では勝てないかもしれません」
去りゆく楊の後ろ姿、その隙の無さに、楽乗は瞠目した。
「それ程ですか。どうやら、ただの商人というワケでは無いようですね」
齋和を立派に育て上げた大商人である伯翁が目をかけた人物であるのだから、充分信頼に足るだろう。
しかし、楽毅は彼の服に配われた太極図がどうしても気にかかるのだった。
若干の冷気を孕んだ秋風がそよぐ丘陵を、馬車の隊列が落葉を巻き上げながら駆け登って行く。
やがて車輪が軋むと、馬車はやや後ろに傾きだす。
「このまま何事も無ければ、あと十日程で霊寿に到着出来そうですね」
先頭を行く幌馬車の中で、床に腰かけ絶え間無い振動に身を任せながら楽毅が向かいに座る楽乗に向けて言う。
「はい。ですが、いつ趙軍の検問に引っかかるかわからないので油断はできません」
楽乗はそう言って腰に携えた一振りの剣に手を添える。何かあればすぐにこれを抜く、という意思表示であった。
「検問は避けられないでしょうが、それを抜ける為にこのような格好をしているのです」
楽毅はそう言って着ている麻製の服の袖をヒラヒラさせる。楽毅と楽乗は趙軍に怪しまれないように楊商会の服を翠から借り、商人の一員としてこれをやり過ごそうとしていた。
「今は商人らしく振る舞いましょう」
「はい。ですが……どうも足元がスースーして落ち着かないです」
そう言って楽乗はあらわになっている両膝を密着させ、もじもじと体をくねらせる。
彼女は常に男性と同じ脚衣を好み、女性らしい衣装はあまり着た事が無いのだ。
翠もそうだが、楊商会の女性用の服は丈が短めで、脚を大胆に露出させた意匠だ。しかし楽乗は男性並みに背が高いため寸法が合わず、翠と楽毅は膝下のみが露出しているのに対し、彼女は膝上までもが完全に露出してしまっていた。
「よく似合ってますよ、楽乗さん」
「もう、からかわないでください、お姉様ッ!」
いたずらっぽい笑いに、楽乗は顔を赤らめて叫んだ。
──それにしてもこの太極図、どうも気になる。
自分が着ている服の裾、その外側に刺繍された文様を見て、楽毅は再び疑念に駆られる。
彼女が危惧しているのは、この太極図に象徴される陰陽説は【墨家】にも大いに用いられていること──つまり、楊商会は【墨家】と関わりがあるのではないか、という事であった。
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