趙の国都・邯鄲──
その宮廷の廊下を、跳ねるような軽い足取りで歩くひとりの少女がいる。
亜麻色の長髪をなびかせ、誰もが心を奪われそうな美貌を弛緩させるその少女──趙勝姫は、義兄のいる部屋を目指していた。
趙の公女である彼女には二人の義兄がいるが、彼女が敬愛し、これから逢いに行こうとしているのは趙何の方である。
やがて目的の部屋がある廊下の角を曲がると、ちょうどひとりの少年がその部屋の中から現れる。
「お兄様! 趙何お兄様!」
弾むような声でその名を呼び、すぐさま駆け出す。
「勝姫じゃないか。どうした? そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもありません」
義兄の前で立ち止まると趙勝姫は少し不機嫌そうに顔を顰め、
「聞きましたよ。太子に命ぜられたそうじゃないですか。そんな大事なこと、どうしてすぐに教えてくれなかったのですッ⁉︎」
早口で問い詰める。
「ああ、すまない。昨日の今日のことだったからつい。それに私自身、まだ完全に受け入れられた訳では無いから」
やや気圧されながら、趙何は苦笑交じりに答える。
趙勝姫はまだ不機嫌そうに頬を膨らませていたが、すぐに脱力して花が咲いたような満面の笑みを浮かべると、
「おめでとうございます! これからお兄様にお仕え出来ること、とてもうれしく思います!」
趙何の手を力強く握り、喜びを伝える。
「ありがとう、勝姫。これからいろいろと助けてもらうことになるが、よろしく頼む」
微笑みで返す趙何。
しかし、その面立ちにどこか陰を感じた趙勝姫は、
「何か懸念がおありみたいですね、お兄様?」
すぐにその疑念を口にする。
趙何は驚いたように目を剥き、
「こんなすぐに見破られるようでは、私はまだまだ未熟だな」
苦笑交じりにつぶやいてからひと息入れ、静かな口調で語り出した。
「もちろん、引き受けたからには命を懸けてその任を果たすつもりだ。しかし……予感がするのだ。何か国が乱れるようなことが起こるような、そんな悪い予感が」
「国が乱れる……」
それを聞いて趙勝姫はすぐに長兄である趙章のことを想起した。
彼はとにかく気位が高く、今回の廃嫡の件で趙何に殺意を抱いておかしくないと感じている。
彼女自身、趙章が怒り狂って趙何に危害を加えるのでは、と心配していたくらいだ。
しかし、代の統治を命ぜられた彼はそれに大人しく従い、今はそのための準備を着々と進めているという。
静かに。不気味なくらいに静かで従順なのだ。
「変なことを言ってしまったな。すまない。さっき言ったことは忘れてくれ」
趙勝姫が真剣な面持ちで考えこんでしまったので、趙何は苦笑し、気にするなとばかりに彼女の肩をポンと叩く。
「おお、こちらにおられましたか、公女様」
刹那、廊下の向こうから白髪の老人が早歩きでやって来る。
それは趙国宰相の肥義であった。
「太子様もご一緒でありましたか」
彼は趙何の姿を視認すると、そちらにも礼を向ける。
「どうしたの、爺や?」
「はい。実は主父が自ら秦に偵察へ向かい昭襄王に逢うと言って憚らないのです」
「父上が秦に?」
驚嘆の声を上げる趙何。
しかし、趙勝姫は目を爛々と輝かせ、
「いいなぁ。私も行ってみたい」
などとつぶやく。
「何をのんきなことを……」
趙何は嘆息をもらし、肥義の方に向き直って問うた。
「それで、父上を止めることは出来なかったのか?」
「はい。どうしても譲れぬと申されまして……」
皺だらけの顔にさらに皺を刻み、肥義は続けて言った。
「それに、主父は護衛はかえって足手まといだと言ってひとりで乗りこむおつもりなのです」
「ひとりで⁉︎ いくらなんでも無茶すぎる……」
思わず天を仰ぐ趙何。
しかし、主父の──武霊王の性質を熟知している趙何には、肥義は精一杯の説得をした上でそれでも曲げなかったのであろうことは察せられ、彼を責めるようなことはしなかった。
「はい。ですので私としてもせめて護衛だけはつけてほしいと思っておるのですが、主父が納得するほどの腕利きとなると探し出すのも骨でして……」
肥義はそう言って懐から取り出した布で顔の汗を拭う。季節は秋だというのに、今日は夏に戻ったかのような暑さに見舞われているのだ。
「たしかに、父上を護れるほどの剛の者となると、趙はもとより中華大陸全土を探しても見つかるかどうか分からないな」
趙何は渋い顔で腕組みをし、気だるげにうなる。
「それが、実は趙にいるらしいのですよ。一騎当千の剛の者が」
ひとしきり汗を拭い終えた肥義は布を仕舞うと、今度は力強い口調でそう言う。
「趙にそのような豪傑が? 初耳だな」
趙何は思わず首をかしげた。戦場に赴いたことのない彼ではあるが、王族の責務としてきちんと戦いの記録は把握しており、趙に華々しい豪傑が存在するならば当然彼自身も知っているはずなのだ。
「私も最近まで知りませんでした。ですがいるのです。そうですよね、公女様?」
肥義はそう言って趙勝姫の方へ向き直る。
「え? 私⁈」
秦がどういう国かと思いを巡らせていた彼女は突然話を振られ、思わずキョトンとしてしまう。
「まさか、勝姫……お前が一騎当千の豪傑だったとは。人は見かけによらないものだな」
「ちょっと、お兄様⁉︎ この可憐な私のどこが豪傑に見えるんですか?」
趙何の言葉に不満顔で抗議する趙勝姫。彼は苦笑と共に、すまぬ、とすぐさま謝意を示す。
「なんでも、先に行われた中山国との戦で敵の奇襲を受けて危機に陥った主父を、たったひとりで救った者がおり、それが公女様のお知り合いらしいのです」
「父上の危機をたったひとりで……」
「はい。目撃者の話ではその者は大岩を軽々と扱うほどの怪力乱神だとか」
「ふむう……」
肥義の言葉を受け、考えこむ趙何。たしかにその報告は彼自身も耳にしていたが、目撃者がほぼ皆無な上に非現実的な話だったので、宝珠の力を使った武霊王がひとりで敵を蹴散らしたのだろう、と処理をしていたのだ。
「本当にそのような豪傑が趙にいたのか……。勝姫、知っているのか?」
趙何と肥義の好奇に満ちた視線が少女に注がれる。
──大岩を軽々と扱うって……あのコのことよね?
心当たりの人物が思い当たる趙勝姫は苦笑し、
「知っておりますが、おそらく本人を見たら驚くと思いますよ」
二人にそう告げるのだった。
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