「楊様⁉」
その時、兵舎から現れた少女が驚きのこもった声で呼んだ。細い目を目一杯に開いて楊を見つめるその少女は、翠であった。
「おお、翠ですか。ずいぶん雰囲気が大人になったのではありませんか? 一瞬、別人かと思いましたよ」
「ほんの数ヶ月です。何も変わっておりませんよ……」
楊の前に歩み寄った翠は、そう答えながらも少しうれしそうに微笑んだ。
楊は、翠が以前と違って年相応の明るい表情を見せるようになったことに気づき、
「やはり、楽毅どのの元に預けたのは正解だったようですね」
その小さな頭をそっと撫でる。翠は顔を赤らめ、小さくうなずいた。
──たしか、翠は楊どのに拾われた孤児だったわね。
その姿を見て楽毅は、彼女が楊に対して恩人以上の感情を抱いていることを、そこはかとなく感じ取るのだった。
「ところで楊どの。斉から参られたとのことですが、あちらで何か変わったことはありませんでしたか?」
「ええ、ございました。実はそれをお伝えするのも、こちらに参りましたもうひとつの理由でございます」
楽毅の問いにそう答えた楊は、ざんばら髪を一度かき上げ、鋭い目つきで言った。
「趙からの使者が臨淄の宮中に参りました。理由は恐らく……」
「ええ、中山国討伐への協力催促でしょう」
楽毅は特に驚いた素振りも見せず、そうつぶやいた。
「想定の範囲内、ということですか?」
「ええ。用意周到な武霊王が万全を期して中山国を討とうとするなら、斉を動かすくらいのことはしてくると思ってはおりました」
ほう、と楊は感嘆をもらす。
「楽毅姉さん。斉は要請に応じて中山国に大軍を差し向けてくるのでしょうか?」
「斉と中山国との関係を鑑みれば、おそらく参戦はしてくると思います。ですが、武霊王に手足の如く使われることを斉の湣王がよしとせず、全力で協力する可能性は低いと思われます。まあ、あくまでも推論に過ぎませんが」
口元に手を添えて思惟する楽毅。
それを聞いた翠は、陰鬱な面持ちでキュッと口を引き結んだ。
「せめて、中山王が楽毅姉さんを信頼して、全軍を指揮させてくれれば……」
「ありがとう、翠。でも、そういった面も含めて戦なので、こればかりはもうどうしようも無いことです」
楽毅はそう言って、力無く自嘲した。
「……アナタが王位を奪る、ということはお考えにならないのですか?」
「ッ!」
楊の口から発せられたその言葉に、楽毅と翠は驚きのあまり開口する。
「……笑えない冗談ですわ、楊どの」
「おや、わたくしが軽薄な冗談を言うように見えましたか? 割と真面目な性格と自負していたのですがね」
そう言って、含み笑いを見せる楊。
「わたしは……そのような人道に悖る愚かな行為、したいとは思いませんし、考えたくもありません」
楽毅は渋い表情でかぶりを振った。
「果たしてそうでしょうか? 臣下や民を軽んじ、国をかたむかせるような愚昧な王を誅することは結果、民や国のためになるとは思いませんか? 苦しむ民を救うことこそ、正義だと──」
それでも、と楽毅は珍しく声を張り上げて楊の言葉を遮断し、
「たとえどんな理由があろうとも、わたしにはそれは出来ませんし、それが正義だとは決して思えません」
その後は静かな口調で、自らを落ち着かせるようにそう言った。
楊はまだ何か言いたげだったが、もうこの件については話したくないという雰囲気を彼女から汲み取り、
「……愚かなことを申しました。どうか先ほどの言葉は忘れてください」
頭を下げて謝意を示すのだった。
「こちらこそ、度重なるご援助に何も報いられず、申し訳ございません。せめて、今夜は我が家にご逗留いただき、旅の疲れを癒してください」
「それは誠にありがたいお申し出。ですが、我々はすぐに燕へと戻らねばなりませんので、このままおいとまさせていただきます。それと翠のことなのですが、このまま側に仕えさせてくださいませんか?」
楊は楽毅の申し出を丁重に断り、代わりに翠を楽毅に託す。
「かしこまりました」
楽毅は迷うこと無くそれを快諾する。翠も、楊に向けてコクリとうなずいた。
楊はか細い笑みを浮かべて拱手し、クルリと踵を返す。
「ああ、そういえばもうひとつお伝えしたきことがございました」
しかし、すぐにその歩みを止めてそう言うと、
「どうやら、中山王はどうやら【墨家】の者たちを召集したようです」
視線だけを楽毅たちに向け、そう告げた。
「え⁉」
意外にも、その言葉にいち早く反応を示したのは翠であった。
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