その後、二人は特に会話も無いままただ通りに目をやっていた。
元気にはしゃぎ回る子供達と、それを優しく見守る親達。いつもと変わり無い穏やかな光景。
しかし、戦火は確実にこの霊寿をも呑みこもうとしていた。
「……のどかだな」
ひとり言の様に姫尚がポツリと呟く。
楽毅はコクリとうなずいた。
「私は護らねばならない。彼らを──彼らの今ある日常を。しかし、不甲斐無い私にはその為の力が無い」
自らの手のひらを虚しそうに見つめる姫尚。
楽毅は何か言おうと口を開いたが、結局かける言葉が見当たらなかった。
「私は……父に疎まれている。憎まれていると言っても過言ではない」
まさか、と楽毅は口にするが反面、あの王ならあり得ると思い至り、それ以上何も言わなかった。
「そなたも知っているとは思うが、斉を嫌い抜いている父にとってその王族の血を引く私と母は邪魔者でしかない。父は、心の奥底では腹違いの弟に王位を継がせたいと願っているのだ」
王には寵愛をかたむける妾がおり、その間に生まれたまだ幼い子供を次期国王に据えたがっている事も、楽毅は噂で聞いていた。しかしすでに太子は姫尚と定めており、何の落ち度も無いこの青年を自分勝手な都合で廃嫡する事はたとえ王であっても許されるものでは無かった。
それだけに、彼は常に冷眼を向けられてきたのだろう。
──この方は孤独なんだわ。
その孤独を癒す事が出来る相手はただひとり、母だけである。母の愛だけが彼の支えとなり、彼の心を繋ぎ止めていたのだろう。
「私は近々、総大将に任命される予定だ。もちろん、私は全力を尽くしその任を全うするつもりだ」
しかし、と姫尚はさらに表情を曇らせて続けた。
「父は本当は……私の死を願っているのだ。私が戦死すれば、心置き無く弟を太子に出来るからな……」
哀愁に掠れた声が、風の音と夾雑して楽毅の心を震わせる。
確かに、そういった事例は過去の歴史上からも枚挙に暇がない。しかし、太子が自らの苦しい境遇を教育係でもないただの一家臣に生々しいまでにさらけ出す、という話を楽毅は聞いた事が無かった。
「私が死ぬのは構わない。しかし、最後まで父に──」
その言葉を遮るように、楽毅は姫尚を──彼の顔を自分の胸に抱き寄せた。なぜそうしたのか、楽毅自身にも分からなかった。恐らく無意識の内の行動だったのだろう。
「死んでも構わない、などと二度とおっしゃらないでください。母君が悲しまれます。それに……わたしも悲しいです」
孤独を感じた者同士の同情なのか。はたまたそれとは別の感情なのか。彼女は自らを突き動かすものの正体が分からないまま、それでも言葉を向け続けた。
「わたしがアナタの力になります。わたしがアナタを護ります。だから、アナタは死にません。わたしが……死なせません」
気づくと楽毅の瞳からは涙があふれ出し、姫尚の額の辺りへとしたたり落ちた。
覚醒した様に姫尚は楽毅の手を握り、胸から顔を離し、潤いを帯びた少女の碧い瞳を見つめる。
「私の為に涙してくれる者がここにもいる。確かに死ぬ訳にはいかないな」
姫尚はもう片方の手で楽毅の目元の涙をそっと拭い、優しくほほ笑んだ。
楽毅も笑顔でうなずき、それに応えた。
「楽峻からそなたの話を聞いた時、私は予感したのだ。この者なら私の力となってくれるのではないか。この者が中山国を救ってくれるのではないか、と」
「救国の徒となれるかは分かりませんが、わたしを将軍に推挙してくださったアナタ様のご恩に精一杯報いる所存です」
楽毅はその場に片膝をついて拝礼し、目の前の青年に心からの忠誠を誓った。
「よろしく頼む、楽毅」
凛とした声が彼女の胸に響いた。
──命を賭して仕えるべき主君に巡り会えた。
楽毅は全身が震える程の感動を、生まれて初めて覚えたのだった。
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