十日間の休戦を経た趙軍は、新しく中山王として即位した姫尚が立てこもる昔陽の城を攻め立てた。
中山軍は、趙奢の開発した攻城兵器──搭天車と、鉄球を飛ばす飛び道具──火砲と、一回で複数の矢が射出できる弩──連弩を封じるために、城の周囲全方向に大きな濠を幾重にも張り巡らせ、その内側では湿った倒木を高く複雑に積み上げて備えた。容易に城に近づけなくなった趙軍は、趙奢の開発したこれらの兵器を使用出来なくなったばかりではなく、アリの巣のように張り巡らされた抜け穴からの奇襲攻撃に悩まされ、思うように攻略が進まなかった。
それでも趙軍は地道に濠と抜け穴を埋めてゆき、ひと月後には遂に昔陽を陥落させた。
これにより中山国はすべての城を失い、残存した三千の中山軍は戦前に山中に築いていた砦に移り、ゲリラ戦を繰り返した。その砦は昔陽の東──呼沱水のすぐ北側にある、自然を大いに利用した天然の要塞だった。
複雑に入り組んだ山中では大軍や攻城兵器が思うように展開できず、ここでも趙軍は苦戦を強いられていた。
戦力差を考えれば中山軍の健闘と言えるだろう。
しかし、楽毅たちにはひとつの懸念があった。
それは、食糧の問題であった。城も領民も持たない中山軍には定期的な食糧調達は見こめず、交代で兵士が山中へ出て狩りをしたり、山菜や果実を採集したりして何とか食い繋いでいるという状況だ。このままでは近い内に食糧が枯渇し、飢えるのは時間の問題だろう。
趙軍もそれを狙っているのか、今では両軍はいたずらに睨み合うだけの日々が続き、ジリ貧の状態が続いていた。
砦内の天幕──
簡易な地図が描かれた大きな白布を足元に敷き、楽毅はある一計を案じていた。
「ただいま戻りました、楽毅姉さん」
じっと座して思案していた彼女の元に、ひとりの少女が音もなく現れる。
「ご苦労様でした、翠。ご無事で何よりです」
少女の方に向き直り、労いの言葉をかける。
「はい、ありがとうございます。趙軍の配置、掴んで参りました」
翠は側に置いてあった筆を執り、
「──こうなります」
地図上に×印を付け、趙軍の点在する箇所を示した。
「それで、敵の本陣なのですが──」
「発見出来たのですか?」
翠はコクリとうなずき、地図上に大きな○印を記した。そこは、この砦から呼沱水沿いをずっと西に行った先の隘路だった。
楽毅は気持ちが高揚するのを実感しながらも、何とか冷静を装い、彼女から詳しい報告を聞く。
「本陣の兵力は如何ほどでしたか?」
「およそ……一万かと」
「一万……ですか」
楽毅はそうつぶやいたきり、しばらく神妙な面持ちで考えこんだ。
趙軍は、大軍を展開出来ない現状と食糧の事情から、兵の大半をすでに本国へと返しており、それは既に彼女たちの知るところであった。
とはいえ、それでも趙軍は三万の兵力を有しており、数の上での劣勢は決して揺るぎないものであった。
そこで楽毅は一計を案じた。それは、残存兵すべてを投じて趙軍の本陣を奇襲し、武霊王を討つ、というものであった。
趙の絶対的権威で武の象徴でもある武霊王のみに標的を絞り、これを排除することによって趙軍の指揮系統を壊滅させるのが狙いである。
それは正しく一か八かの捨て身の作戦だった。しかし、このまま座して兵糧が尽きるのを待つよりは生存の可能性がある。楽毅は、その一縷の望みにすべてを懸けることを決めていた。
しかし、まだ本陣の位置と勢力が判明しただけであり、それを実行に移すには大きな障害があった。それは、移動である。一万人を相手に奇襲を仕掛けるには、やはり残存兵力のすべてを投じなければ簡単に返り討ちにされてしまう。しかし、人数が多ければ多いほど極秘裏の移動は困難となり、本陣に到達する前に他の敵部隊に発見される可能性が高くなるだろう。
敵に発見されること無く、三千の兵を敵本陣まで移動させる。
これが完遂出来なければ、奇襲など夢のまた夢。ただの絵空事に過ぎないのだ。
しかし、具体的な打開策が得られないまま、楽毅はひたすら地図を見つめながら試行錯誤を繰り返すのだった。
やがて夜も更け、楽毅はいつの間にかその場で眠りに就いた。
「──さま。が…きお姉…ま」
微睡みの中、誰かが耳元で呼びかける。
「……ん」
ゆっくりと覚醒する楽毅。その体に一枚の毛布がかかっているのに気づく。
「楽毅お姉様、おはようございます。仕事熱心なのは結構ですが、キチンと休んでおかないと体がもちませんよ」
寝ぼけ眼の楽毅を見守りながら、長身の少女──楽乗がやや呆れたような口調で苦笑した。
「この毛布……楽乗さんがかけてくださったのですか?」
「ええ。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ冷えますから。風邪など召されぬよう、ご自愛くださいませ」
「すみません。ありがとうございます」
楽毅は眠い目を擦りながら、ゆっくりと立ち上がった。
外に目を向けると、透き通るような青の色彩が広がっている。
「今日も暖かくていい天気ですね。外を散歩したくなりますわ」
もちろん、砦から少し離れた山の中腹には趙軍の軍旗がはためいており、叶うことは無いのだが。
「そういえば昔を思い出しますね。丁度今くらいの時期、お姉様と二人で邸を抜け出し呼沱水の付近を朝方に散歩した時のことを。あの日はもの凄く冷えて、河から濃い霧が立ちこめて。すぐに迷子になってしまって、その場で泣きじゃくってしまったのですよね」
「ええ、そうでしたわね。結局、霧が晴れるまで身動きが取れなくて。後で父上や大人の方たちが心配して迎えに来てくださったのですよね」
「ホントに、あの時はいつもの通い慣れた場所がまるで異世界のように感じられて、怖かった思い出があります」
二人は昔話に花を咲かせる。
その刹那、楽毅はハッと何かに気づくと、
「そうです、霧ですよ! 霧が発生する時間帯をあらかじめ予期できれば、敵の本陣に奇襲出来ます‼」
楽乗の手を取り、興奮気味に言った。
突然のことに動揺した楽乗は、その言葉をすぐに嚥下出来ずにいた。
楽毅はすぐに、兵士の中から気象の先読みが出来る者を探した。すると、ひとりの中年男性兵が彼女の前に現れた。
「良と申します」
男は名乗った。
「ご苦労様です。アナタは気象の先読みが出来るそうですが、本当ですか?」
「先読みと呼べるほどのものではありませんが……。オイラは昔から空を見上げるのが好きで、雲の動きや湿度の変化からある程度の天気の予測が出来るようになりました」
「それでは、霧が発生する条件などもお分かりですか?」
「はい。霧は、大気が急激に冷えて湿気が多くなると発生しやすくなる傾向にあるようです」
「なるほど……。それで、先読みが的中する確率は如何ほどでしょうか?」
「そうですね……およそ、七割といったところでしょうか」
「七割……」
それだけあれば、すべてを賭けるのに充分だと思った。
「それで、近い内に霧が発生するとすれば、いつくらいになるでしょうか?」
「そうですね。過去の経験から推測すると恐らく……明後日の未明あたりかと」
良はおもむろに天を見上げ、そう言った。
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