様々な思い出を胸に、楽毅は約一年半を過ごした学び舎を後にした。
──わたしは果報者だわ。
多くの者が別れを惜しみ、自分の為に涙してくれた。それが何よりもうれしかった。
これから楽毅は商業区に出て楽乗が宿泊している宿に向かい、彼女と合流する予定だ。
──この街も今日で見納め、か。
名残り惜しむ様に、ゆっくり歩む。
やがて商業区と稷門区が交差した通りに近づく。
──そういえばあの時、あそこの角で二人が待っててくれたのよね。
楽毅は、自分が大きく変わるきっかけとなった日の事をふと思い出した。
人生を悲観し怠惰に生きてきた楽毅は孫翁から、生きる動機を見出せ、との課題を与えられ、答えを得るまで戻ってはならないと告げられた。
そして楽毅は偶然にも孟嘗君──齋和──と出会い、彼女の生き様に触れる事で活力を取り戻した。
結局、孫翁からの課題には朧げな答えしか出せなかったが、その時、学友である趙奢と田単は外で楽毅の帰りを待っていてくれた。
そして今──
「……趙奢。田単」
あの日とまったく変わらぬ角を曲がってすぐの場所で、二人が憂鬱な面持ちで立っていた。
立ち止まる楽毅。しかし、すぐに言葉が出てこなかった。
「……ゴメン、楽毅」
重い沈黙を最初に破ったのは趙奢の方だった。
「本当はジブン、もっと前に中山国遠征のコト、お父さんからもらった書簡で知ってたっス……。でも、伝えなかった。ジブンは……趙の人間だから。ジブンは友情よりも国の事情を優先したんスよ……」
許して欲しいっス、と頭を下げる趙奢。眼鏡越しの瞳から、涙がポロポロとあふれ出していた。
「……許すも何も、わたしは全然気にしてないわ」
「……ホントっスか?」
「ええ。アナタは当然の事をしただけ。わたしだって同じ立場だったらそうしていたもの」
楽毅の言葉にホッと安堵する趙奢。
「楽毅……。私もアナタに謝らなければなりません」
真剣な面持ちで、今度は田単が切り出す。
「あの時……天下の大宰相になると告げられた時、私は不相応だと言いました。本当にこの三人がそれぞれの目標の為に争わなければならないのなら、私はただの一役人としてひっそりと生きよう、とも思いました。しかし……それとは別に、宰相となった姿を思い描いて高揚を隠せない自分がいたのです」
静かな口調で心情を吐露する。そっと自分の胸に手を当て、彼女は続けて言った。
「思い悩みました……。答えを出せないまま、私はどうしていいか分からずに二人を避けてしまいました。こんな狭量な自分を恥じるばかりです。本当に……申し訳ありませんでした」
趙奢と同様に深々と頭を下げる田単。
「田単まで……」
楽毅は、わだかまりが解けてうれしい反面、ここまで畏まられて逆に戸惑いを感じてしまうのだった。
「謝る必要なんて何も無いわ。それに、目標を諦める必要もないからね」
楽毅の言葉に、田単は驚きの面持ちで顔を上げた。
「実はね、みんなと争うくらいなら野心なんか捨ててしまおう、ってわたしも考えたの。どちらにしろわたしの予見は曖昧なものだったし、二人ほど明確な目標ではないから。でもね──」
楽毅は、ずいっと田単の前に歩み寄ると、自らの胸に手を当て、
「やっぱり抑えきれないの。この胸を、血を、体を、わたしを構成する全てのものを沸き立たせるようなこの高揚感を! だから決めた……。わたしはやっぱり、自分の力がこの世界でどれだけ通用するのかたしかめたい。そうしてたどり着いた結果が王になる事なら、わたしは甘んじてその運命を受け入れる。もう、この気持ちを偽らない。だから──」
力を溜めるように一息吐いてから、
「二人とも、誰かに遠慮して目標を諦めたりしないで。この三人で正々堂々、全力でぶつかり合いましょう! たとえどんな結果が待っていようとも……わたしは後悔しないから」
ありのままの気持ちを二人に伝えるのだった。
「……わかったっス、楽毅。ジブンだって、力の出し惜しみはしたくないっスから。やるならガチンコ勝負っスよ!」
趙奢はそう言って微笑む。
臨むところだわ、と楽毅も微笑みを返した。
「私は……宰相になると告げられてもやはり、自分がそうなる姿を明確に思い描くことが出来ません。ですが、これだけはハッキリ言えます。もしもこの国が──斉が危機に瀕した時、私は自身の全力を尽くしてこれを護り抜く所存です。たとえアナタ達と刃を交える事があろうとも……」
田単は真剣な面持ちを崩さぬまま、新たにした決意を告げるのだった。
楽毅と趙奢は、彼女の秘めたる熱き思いを受け取り、大きくうなずいた。
「……楽毅、これを受け取ってほしいっス」
趙奢が一枚の竹札を差し出す。
『また会おうっス!』
彼女らしい伸び伸びとした力強い書体で、彼女の名前と共にそこには記されていた。
「ええ、必ず!」
それを受け取り、微笑む楽毅。
「私からも……」
田単も同様に差し出す。そこには、
『どんな事があろうとも、私達はずっと友達です』
彼女らしい繊細で優雅な文字で、彼女の名前と共に記されていた。
「ええ……ずっと、友達よ」
それを受け取った楽毅から嗚咽がもれる。
そして三人は抱き合い、別れを惜しんで涙した。
「アナタの発明、楽しみにしてるわ、趙奢」
「ぇぐッ! 楽毅……楽毅ィィィ!」
慟哭のあまり言葉にならない趙奢。
「元気でね、田単」
「楽毅こそ……ご武運をお祈り申し上げます」
田単の言葉に、楽毅は大きくうなずいた。
「それじゃあ」
そう言って、楽毅は二人に背を向け歩みを再開する。
サヨナラ、は言わない。
きっとまた、会えるのだから。
──武霊王にわたしは殺せない。だって、わたしは彼女達の運命に立ちふさがる敵となるのだから。
心でそう呟き、楽毅は上を見上げる。
齋和と出会い人生が大きく変わったあの日と同じ、天では雁が群れを成して羽ばたいていた。
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