趙との交渉を終えた楽毅達三人は、中山国へは戻らずにそのまま南西へと進路を取り、魏の国都である大梁を目指した。
雪が容赦無く降り続く悪路をひた進んだ。魏へ行くにはどうしても趙国の領土内を通過しなければならず、趙軍の目を掻い潜りながらの隠密行動は困難を極めた。
雪水を啜り、わずかに顔を覗かせた野草を食した事もあった。宿などが無い山中では、洞窟内で火を焚き、お互いの体を寄せあって寒さを凌いだ事もあった。
そんな苦労の末に大梁にたどり着いた時には、武霊王との交渉から半月程の月日が経過していた。
楽毅達は疲れを癒やす間も無く、魏の宰相、公孫衍との面会を求めた。公孫衍は『鈿女』とも称され人望も篤く、かつて五ヶ国連合軍を率いて秦を攻めた事があり、斉の孟嘗君と並び称される程の稀代の女傑であった。
しかし、折悪く彼女は不在であった。その為、彼女に次ぐ有力者として司馬──軍事の最高指揮官である范座という人物への取り次ぎを願い、なんとか面会が叶った。
楽毅は趙の──武霊王の危険性を滔々と説き、中山国への援助を請うた。
范座は楽毅の理路整然とした論説にいたく感心したが、魏は魏で大っぴらに兵を出せない理由があった。
現在、魏は楚と同盟を結んでおり、秦、並びにそれに追随する韓に睨みを利かせている。とても他国に兵を送る余裕など無いのだ。それに、今の魏王──襄王は無難な政治を行う代わりに、軍事と外交に関しては消極的な面を持っている。その為、大した見返りも望めない遠征をわざわざ行うとは到底思えないのだ。
結局、魏は中山国を援助しない代わりに趙にも加担しないという事で話が落ち着き、楽毅達にとっては何ひとつ実入りの無い結果となった。
想定していた事とはいえ、やはり孤立無援というのは想像以上に辛いものだと、楽毅は痛感した。
──これではきっと、燕との交渉も絶望的に違いないわ。
楽毅は、中山国を立つ前に燕との外交を姫尚と楽峻に一任してきた。しかし、武霊王による中山国包囲網がほぼ完成している最中で、それを覆すのは至難の業と言えるだろう。
楽毅がそう実感した出来事が、范座との会談の中にあった。
楽毅は魏からの援助が得られなかった場合を想定し、中華大陸最西の強国・秦へ赴く事も計画していた。しかし、武王亡き後の秦は公子達による混沌たる内乱が勃発し、芈八子──武王の父である恵文君の夫人──と、その弟である魏冄という男が擁立した公子・贏稷がどうやら勝利しそうだ、という情報を范座から聞かされたのだ。
そんな状況下ではとてもではないが秦からの援助など、望めそうもない。しかし、楽毅が懸念するのは、次の王に就くであろう公子・贏稷の存在であった。
かつて斉の臨淄に留学していた楽毅が、中山国に帰国する道中で偶然出会った少年。それが 贏稷だ。
彼は遠く離れた北国の燕に遊学しており、趙の武霊王に庇護されて秦へと帰国した。燕は小国であり、そこに遊学させられるという事自体、 贏稷の公子としての地位の低さを物語っていた。ところが、本来なら陽の目を見ないはずの少年が武霊王という大物から庇護を受け、今正に歴史の表舞台に立とうとしているのだ。
しかし、武霊王の援助を得ているという事は、当然王となった暁には趙・更には燕との友好を優先するはずである。中山国としては、魏・秦・燕のいずれも動かせないという事は、趙による中山国包囲網は完遂したという事に他ならない。
それに、楽毅は贏稷を秦国公子と知らずに石をぶつけ、気絶させてしまった過去がある。
もしも、 贏稷がその事を覚えていて恨みに思っていたなら。そこへ楽毅が外交に訪れたなら。きっと、秦は中山国を援助しないどころか、趙に積極的に援軍を送る可能性もあるのだ。
全ては武霊王の掌──
楽毅は武霊王の底知れぬ深謀の脅威を改めて思い知り、何の成果も得られないまま中山国へと帰国するのだった。
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