一万の兵を預かった楽毅の行軍は実に魯鈍であった。
少し進んでは休憩し、少し進んでは休憩しを繰り返し、日が完全に昇りきった頃にはまだ、目的地である東垣まで三分の一にも満たない場所にいた。
この亀の如く遅行にはさすがに楽乗も不安をいだいたが、昼の休憩を終えると同時に一軍は脱兎の如く俊敏さで駆け抜け、南方の最大拠点である東垣には向かわず、東垣の邑から少し西へ離れた山道付近にある水留と呼ばれる砦へと入った。そこは険隘な山岳を背にした天然の要塞で、常にジメジメとして薄暗い場所である。
なぜ敵兵に包囲されたままの東垣の救援に向かわないのか、と訝る声が上がったが、
「東垣は堅牢で力押しをすれば趙軍の被害は甚大なものになります。それに糧食の蓄えも豊かで数ヶ月の籠城にも耐えられます。そう簡単には落ちません」
と楽毅は力強く語った。
「それよりも、今夜はこちらに敵の夜襲があるかもしれません。警備を怠る事の無いように」
そして楽毅はさらに驚く事を語った。
「その夜襲の隙に趙軍は山道を抜けて一気に霊寿へと向かうつもりなので、あらかじめ山道を封鎖しておく事も忘れないでください」
予言めいたその言葉には、兵士のみならず楽乗をはじめとする佐将までもが首をかしげるのだった。
そして、その夜──
楽毅の言葉どおり趙軍の無数の炬火が暗闇の中で蠢き、水留の砦をぐるりと取り囲んだのだった。
次々と砦に火矢が撃ちこまれ、それらは砦を形成する大木の柵に突き刺さる。が、火は燃え広がること無くすぐに衰えてゆく。
それでも趙軍からの火矢の雨は降り続くが、やはり結果は同じだった。
「まるでホタルの様ね」
眼下でせわしなくゆらめく炬火の群れを俯瞰しながら、楽毅は呟いた。
趙軍の火矢は彼らが思った以上に燃え広がらない。なぜなら、この水留の砦はその名の通り付近を流れる呼沱水と呼ばれる川から引いた水が溜まる場所となっており、一年を通して乾燥することの無い湿地帯なのだ。仮にうまく火がついたとしても、砦内に満々と溜めこまれた水ですぐに鎮火が出来る。火攻めは無意味なのだ。
お返しとばかりに、今度は楽毅率いる中山軍が趙軍の灯り目がけてありったけの矢を放った。夜に炬火を焚けばそれはもはやただの的であった。
眼下から上がるうめき声と、少しずつ消滅してゆく炬火からその戦果がうかがえる。
すると今度は、ガラガラという大きな車輪音が地鳴りの様に響く。
「今度は衝車ね」
楽毅は全く動じる事無くただ待っていた。すると、砦のすぐ手前でどしん、という轟音が趙兵の悲鳴と共に響いた。落とし穴に嵌って脱輪し、衝車が横倒しになったのだ。
そこにすかさず砦から火矢が撃ちこまれ、衝車はすぐに燃え広がった。
こうした攻防が一時間ばかり繰り広げられた後、趙軍の炬火は砦から離れてゆき、先程までの喧騒がまるでウソの様に静寂の世界が広がっていた。
楽毅率いる中山軍が趙軍の夜襲を撃退したのだ。
そして楽毅はそのままもうひとつの報を待っていた。
「山道に現れた趙軍を撃退しました」
別の場所で行われた戦いの結果を聞き終えると、楽毅はようやく緊張が解けた様に笑みを浮かべるのだった。
「お疲れ様です、お姉様」
鬨の声が上がる中、楽乗と翠と楽間が楽毅の元へとやって来る。
「みなさんも、お疲れ様です」
労を労うと共に、彼女達が無事に帰って来た事に安堵する。
昼間の内に楽毅は楽乗に七千の兵を与えて翠と楽間も同行させ、山道を護らせていた。
楽乗達は木々を切り倒して山道に簡易の砦を築き、夜に趙軍が現れた際には脇に伏せていた弩兵の矢を浴びせ、敵が算を乱すと猛然とこれに切りこみ、見事に撃退したのだ。
「それにしても、すべてお姉様の言われた通りでした。なぜ趙軍が夜襲を仕かけ、山道を取りに来ると分かったのですか?」
身長以上もある無骨な戟を脇に立てかけ、楽乗が問うた。
「趙軍は……趙軍全体は非常に統率が取れています。それというのも、趙軍の戦略は全て総大将である武霊王が定めているからです。だから、武霊王の視点に立って考察した時、彼は三方から一気に国都である霊寿だけを目指し、電光石火でこれを落とす、と気づいたのです」
石塁に背を凭れながら、楽毅は語った。
「しかし、敵の視点に立つと言ってもそれは容易では無いでしょう?」
「いいえ、武霊王という人は実に分かりやすいですよ」
翠の問いに楽毅は笑って言った。
「何しろ、伝統や文化を捨ててまで胡服騎射を推し進めた人です。その思考は極めて合理的なのです。そして、この中山国を合理的に制圧するとしたら、まずどこを攻めるべきでしょうか?」
「そうか、だから霊寿なのか! 国都の霊寿が落ちれば士気は著しく低下するし、他の邑も孤立して連携する力もなくなる。枝打ちするように支城を落としてから詰めていくのが戦の定石。しかし、武霊王という男は次の一手でいきなり王手を打とうしているのか!」
楽乗が興奮気味に答えた。
楽毅は満足そうにうなずくと、さらに続けた。
「趙軍はひとりの巨人だと想像すればその特徴が掴みやすいと思います。つまり、武霊王という頭脳があり、その意思を忠実に実行する為の手足がある」
なるほど、とみな感嘆する。
「手足となる諸将は武霊王の意思である戦略に口出し出来ず、また頭脳である武霊王は諸将のやり方、すなわち戦術には一切関与しない。実に見事に組織化されています」
「しかし、その戦術面で油断ならない人物が敵にいますね?」
楽乗の言葉に、楽毅はコクリとうなずいた。
その人物とは、帰国の最中で楽毅達の正体を看破した趙与に他ならなかった。
しかし、大将である趙の太子・趙章は完全に中山軍を舐め切っており慎重的な彼の意見を聞く事は無い、と踏んでいた。それを証拠に、楽毅達は最初わざと行軍を遅らせて趙軍の偵察隊の目を欺き、その遅行を真に受けた趙章は南から霊寿へと向かう唯一の山道を先に抑えるという任務を怠った。
『始めは処女の如く。後は脱兎の如し』
常に他人を見下し侮ってきた趙章は、そんな兵法の初歩でさえも看過した為に思わぬ足止めを食らい、きっと今ごろは地団駄を踏んでいる事だろう。
「さて、近い内に趙軍が東垣に攻撃を仕かけるはずです。わたし達は今の内に休んでおきましょう」
楽毅はまたもや予言めいた言葉を投げかける。
楽乗達は不思議そうに顔を見合わせるのだった。
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