七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
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第2話 まるでホタルのようね

公開日時: 2021年2月1日(月) 19:25
文字数:2,561

 一万の兵を預かった楽毅がくきの行軍は実に魯鈍ろどんであった。

 少し進んでは休憩し、少し進んでは休憩しを繰り返し、日が完全に昇りきった頃にはまだ、目的地である東垣とうえんまで三分の一にも満たない場所にいた。


 この亀のごとく遅行にはさすがに楽乗がくじょうも不安をいだいたが、昼の休憩を終えると同時に一軍は脱兎だっとごとく俊敏さで駆け抜け、南方の最大拠点である東垣とうえんには向かわず、東垣とうえんまちから少し西へ離れた山道付近にある水留すいりゅうと呼ばれる砦へと入った。そこは険隘けんあいな山岳を背にした天然の要塞で、常にジメジメとして薄暗い場所である。


 なぜ敵兵に包囲されたままの東垣とうえんの救援に向かわないのか、といぶかる声が上がったが、


東垣とうえん堅牢けんろうで力押しをすればちょう軍の被害は甚大なものになります。それに糧食の蓄えも豊かで数ヶ月の籠城にも耐えられます。そう簡単には落ちません」


 と楽毅がくきは力強く語った。


「それよりも、今夜はこちらに敵の夜襲があるかもしれません。警備をおこたる事の無いように」


 そして楽毅がくきはさらに驚く事を語った。


「その夜襲の隙にちょう軍は山道を抜けて一気に霊寿れいじゅへと向かうつもりなので、あらかじめ山道を封鎖しておく事も忘れないでください」


 予言めいたその言葉には、兵士のみならず楽乗がくじょうをはじめとする佐将までもが首をかしげるのだった。



 そして、その夜──


 楽毅がくきの言葉どおりちょう軍の無数の炬火きょかが暗闇の中でうごめき、水留すいりゅうの砦をぐるりと取り囲んだのだった。


 次々と砦に火矢が撃ちこまれ、それらは砦を形成する大木の柵に突き刺さる。が、火は燃え広がること無くすぐに衰えてゆく。

 それでもちょう軍からの火矢の雨は降り続くが、やはり結果は同じだった。


「まるでホタルの様ね」


 眼下でせわしなくゆらめく炬火の群れを俯瞰ふかんしながら、楽毅がくきつぶやいた。


 ちょう軍の火矢は彼らが思った以上に燃え広がらない。なぜなら、この水留すいりゅうの砦はその名の通り付近を流れる呼沱水こたすいと呼ばれる川から引いた水が溜まる場所となっており、一年を通して乾燥することの無い湿地帯なのだ。仮にうまく火がついたとしても、砦内に満々と溜めこまれた水ですぐに鎮火が出来る。火攻めは無意味なのだ。


 お返しとばかりに、今度は楽毅がくき率いる中山ちゅうざん軍がちょう軍の灯り目がけてありったけの矢を放った。夜に炬火きょかを焚けばそれはもはやただの的であった。

 眼下から上がるうめき声と、少しずつ消滅してゆく炬火きょかからその戦果がうかがえる。


 すると今度は、ガラガラという大きな車輪音が地鳴りの様に響く。


「今度は衝車しょうしゃね」


 楽毅がくきは全く動じる事無くただ待っていた。すると、砦のすぐ手前でどしん、という轟音がちょう兵の悲鳴と共に響いた。落とし穴にはまって脱輪し、衝車しょうしゃが横倒しになったのだ。


 そこにすかさず砦から火矢が撃ちこまれ、衝車しょうしゃはすぐに燃え広がった。


 こうした攻防が一時間ばかり繰り広げられた後、ちょう軍の炬火きょかは砦から離れてゆき、先程までの喧騒がまるでウソの様に静寂の世界が広がっていた。

 楽毅がくき率いる中山ちゅうざん軍が趙軍の夜襲を撃退したのだ。

 そして楽毅がくきはそのままもうひとつのしらせを待っていた。



「山道に現れたちょう軍を撃退しました」


 別の場所で行われた戦いの結果を聞き終えると、楽毅がくきはようやく緊張が解けた様に笑みを浮かべるのだった。


「お疲れ様です、お姉様」


 ときの声が上がる中、楽乗がくじょうすい楽間がくかん楽毅がくきの元へとやって来る。


「みなさんも、お疲れ様です」


 労をねぎらうと共に、彼女達が無事に帰って来た事に安堵する。


 昼間の内に楽毅がくき楽乗がくじょうに七千の兵を与えてすい楽間がくかんも同行させ、山道を護らせていた。

 楽乗がくじょう達は木々を切り倒して山道に簡易の砦を築き、夜にちょう軍が現れた際には脇に伏せていた弩兵の矢を浴びせ、敵が算を乱すと猛然とこれに切りこみ、見事に撃退したのだ。


「それにしても、すべてお姉様の言われた通りでした。なぜちょう軍が夜襲を仕かけ、山道を取りに来ると分かったのですか?」


 身長以上もある無骨なげきを脇に立てかけ、楽乗がくじょうが問うた。


ちょう軍は……ちょう軍全体は非常に統率が取れています。それというのも、ちょう軍の戦略は全て総大将である武霊王ぶれいおうが定めているからです。だから、武霊王ぶれいおうの視点に立って考察した時、彼は三方から一気に国都である霊寿れいじゅだけを目指し、電光石火でこれを落とす、と気づいたのです」


 石塁に背をもたれながら、楽毅がくきは語った。


「しかし、敵の視点に立つと言ってもそれは容易では無いでしょう?」

「いいえ、武霊王ぶれいおうという人は実に分かりやすいですよ」


 すいの問いに楽毅がくきは笑って言った。


「何しろ、伝統や文化を捨ててまで胡服騎射こふくきしゃし進めた人です。その思考は極めて合理的なのです。そして、この中山国ちゅうざんこくを合理的に制圧するとしたら、まずどこを攻めるべきでしょうか?」

「そうか、だから霊寿れいじゅなのか! 国都の霊寿れいじゅが落ちれば士気はいちじるしく低下するし、他のまちも孤立して連携する力もなくなる。枝打ちするように支城を落としてから詰めていくのが戦の定石。しかし、武霊王ぶれいおうという男は次の一手でいきなり王手を打とうしているのか!」


 楽乗がくじょうが興奮気味に答えた。

 楽毅がくきは満足そうにうなずくと、さらに続けた。


ちょう軍はひとりの巨人だと想像すればその特徴が掴みやすいと思います。つまり、武霊王ぶれいおうという頭脳があり、その意思を忠実に実行する為の手足がある」


 なるほど、とみな感嘆する。


「手足となる諸将は武霊王ぶれいおうの意思である戦略に口出し出来ず、また頭脳である武霊王ぶれいおうは諸将のやり方、すなわち戦術には一切関与しない。実に見事に組織化されています」

「しかし、その戦術面で油断ならない人物が敵にいますね?」


 楽乗がくじょうの言葉に、楽毅がくきはコクリとうなずいた。

 その人物とは、帰国の最中で楽毅がくき達の正体を看破かんぱした趙与ちょうよに他ならなかった。


 しかし、大将であるちょう太子たいし趙章ちょうしょうは完全に中山ちゅうざん軍をめ切っており慎重的な彼の意見を聞く事は無い、と踏んでいた。それを証拠に、楽毅がくき達は最初わざと行軍を遅らせてちょう軍の偵察隊の目をあざむき、その遅行を真に受けた趙章ちょうしょうは南から霊寿れいじゅへと向かう唯一の山道を先に抑えるという任務をおこたった。


『始めは処女のごとく。後は脱兎のごとし』


 常に他人を見下しあなどってきた趙章ちょうしょうは、そんな兵法の初歩でさえも看過かんかした為に思わぬ足止めを食らい、きっと今ごろは地団駄じだんだを踏んでいる事だろう。


「さて、近い内にちょう軍が東垣とうえんに攻撃を仕かけるはずです。わたし達は今の内に休んでおきましょう」


 楽毅がくきはまたもや予言めいた言葉を投げかける。

 楽乗がくじょう達は不思議そうに顔を見合わせるのだった。

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