翌朝──
山中で夜を明かした中山軍は、趙軍の本陣へ──武霊王の待つ場所へ赴くために身支度を整えていた。
「お知らせします! 虎皮の衣をまとった男が数名の兵と共にこちらに向かって来ております‼」
その時、ひとりの兵士が慌ただしく駆けこんで来ると、やや狼狽した口調で告げる。
「虎皮の衣……まさか、武霊王が⁉」
楽毅は武霊王と何度か対面しており、彼が虎皮の衣を好み常にそれをまとっているのを知っていた。
「はい。使者の旗を掲げさせ、およそ十人の兵士と共に確実にこちらを目指しております」
その場が一斉にどよめき立つ。
なぜ、武霊王が使者として自ら赴いて来るのか?
それも、たった十人だけを伴って。
これから向かおうとしていた矢先に出鼻を挫かれた形となり、様々な推測が飛び交ってその場は喧々囂々となる。
中にはこれを好機と捉え、武霊王を襲撃すべし、との声も挙がったが、すでに降伏の意を固め、何よりも卑劣な手段を嫌う姫尚はそれをよしとしなかった。
「武霊王が自ら出向いて来るのだ。こちらも恥ずかしく無いよう誠意をもって迎えなければなるまい」
姫尚のその言葉により中山の兵士たちは誇りを胸に整列し、武霊王の到来を待った。
「ほう……。悲壮感の中にも威風堂々とした佇まいを感じる。中山の君はよき配下をお持ちだ」
先頭を切って現れた虎皮の衣をまとった男──武霊王は、中山軍の心が決して折れていないことを察し、素直に賛辞を贈る。
「お初お目にかかります、中山王の姫尚です。名に負う趙の英傑にお褒めいただき、光栄に存じます」
姫尚が拱手と共に返す。
この期に及んでまだ王を称するのかと、趙軍の兵士たちから嘲笑が漏れる。
しかし、武霊王は眉ひとつ動かさず、
「中山国のこれまでの戦い振り、大変感銘した」
更なる賛辞を惜しまないのだった。
これには中山兵も趙兵も、驚きを禁じ得なかった。
「正直、俺は甘く見ていたようだ。貴殿との戦いはとても学ぶところが多かった。これは決して嫌味ではなく、俺の本心だ」
「……大変恐縮です。しかし、それはすべて配下の者たちのおかげです。何も出来ない私を、彼らが支えてくれた。だから、ここまで戦えたのです」
「配下に信頼され、その力を存分に発揮させることが出来る。それこそが王の資質だ。貴殿は充分に王としての資質を備えているのだよ」
そう言う武霊王はふと、自身はどうなのか、と考えてみた。
たしかに彼の周りの家臣達は優秀であり、彼に対して畏怖の念を抱いている事だろう。しかし、心から慕われているかといえば、それはやはり違うのだろう。
国に帰れば何万もの兵士が──そして何十万もの民がいるが、果たしてどれだけの者が主君を思い、国のために命を賭して戦ってくれるのだろうか?
「いかがなさいました?」
「いや……何でもない」
武霊王は自嘲し、かぶりを振った。
「さて本題に入るが、俺がここまでやって来た理由は、貴殿らを趙に迎え入れるためだ」
「趙に……迎え入れる?」
武霊王の思わぬ言葉に、中山軍の者たちはどよめき立つ。
「そうだ。貴殿らの奮闘振りに俺はいたく感銘を受けた。是非とも配下に迎え入れたいと思い、交渉に来たのだ。どうであろうか?」
「それは……本当なのですか?」
姫尚の問いに、武霊王はゆっくりとうなずいた。
中山兵は歓喜に湧いた。
たしかに中山国の名はこの中華大陸の版図から消滅してしまう。しかし、強国である趙を苦しめ、堂々と渡り合い、そして稀代の英傑である武霊王に認められたことは彼らにとって紛れも無い誇りであった。
「ただし、姫尚どの。貴殿は官位を剥奪し、平民として趙で暮らしてもらうことになる」
しかし、その言葉で明るい雰囲気が一変し、中山兵の間に動揺が広がる。
「なぜ、姫尚どのだけが平民に落とされなければならないのですか? 一国の王に対し、あまりにも無礼ではありませんか⁉」
憤慨する楽毅。
「姫尚どのに官位を与えるのは、虎に翼を授けるに等しい危険な行為だ。オレは、姫尚どのの威徳性を恐れている。それゆえの裁断と理解して欲しい」
冷静な口調で、武霊王は言った。
澱みの無いその言葉は、偽りない彼の本心であると、楽毅は察した。
「姫尚様を恐れている、ということは、たとえ平民になったとしても常に監視の者がつく……ということでしょうか?」
「そうだ。有り体に言ってしまえば軟禁だな。申し訳無いが、それだけはこちらとしては譲れない。その条件が呑めないのであれば……心ゆくまで戦い尽くすことになる」
「そんな……」
楽毅はこれ以上何も言えなかった。
敬愛すべき主君に辱めを受けさせるのは耐え難い煩悶ではあるが、正直、これ以上の抵抗は無意味とまでは言わないが、玉砕することは身勝手な美学にすぎず、せいぜいその功名がひと時竹帛に垂るくらいだろう。
「私は、それでよい。みなが広い世界へと羽ばたけるのならば、その条件を甘んじて受けよう」
姫尚はそう言って武霊王の前に歩み寄ると、
「武霊王どの。どうか、我が家臣をお頼み申す」
その場に片膝をつき、受諾の意を伝えた。
「姫尚どの……。本当にそれでよいのですか?」
「……ああ。これで、よい」
楽毅の問いに、ほのかな笑みで返す姫尚。
──本当に、このままでいいの?
その笑みに悲哀の色を感じ取った楽毅は、彼のために何が出来るか必死に思惟を巡らせた。
『母の生まれ育った臨淄。私も是非自らの脚で訪れたいものだ』
ふと、彼女の脳裏に、かつて姫尚が目を輝かせながら語った言葉が蘇る。
──そうか。そうだわ!
楽毅は決心し、
「ならば……ならば、せめて姫尚どののご母堂の故郷である斉に移してはいただけないでしょうか? 趙と斉は同盟国。貴方様のご意向は斉にも伝わるはずです。どうか……どうか姫尚さまを斉に住まわせてくださいませ!」
武霊王の前で叩頭し、精いっぱい情熱をもって要望を伝える。
これには武霊王をはじめ、周囲の者は面食らってしまうのだった。
「楽毅……私のことはもう良いのだ」
「いいえ、良くありません! このまま趙で一生を終えるようなことになれば、姫尚どのは必ず後悔します。行きたい場所にいけない辛さは、一生つきまとうものなのです」
宥めようとする姫尚を制して、自身の経験からの持論を伝えた楽毅は、
「どうか、お願い申し上げます!」
改めて武霊王に懇願する。
「「お願い申し上げます‼」」
するとそれに倣い、中山国の兵士たちも全員叩頭するのだった。
趙軍の兵士たちはどよめき立つが、武霊王は黙したまましばらくその光景を見下ろした。
「主を想い、主のためにここまで出来る者がこんなにもいる。何とも羨ましい限りだ」
武霊王はしみじみとした口調でつぶやき、天を仰いだ。心無しか、その瞳が潤んでいるようにも見えた。
「……わかった。その要望を受け入れよう」
しばらくして視線を戻した武霊王は、柔らかい口調で彼らに伝えた。
「あ……ありがとうございます」
楽毅は涙を流しながら、再び武霊王に頭を下げた。
中山兵の間で再び歓声が沸き上がる。
こうして中山国の名は、中華大陸の版図から消滅することとなった。
しかし、力の限り戦い抜き、最後は相手に敬意をもって迎え入れられた彼らの顔には、敗者としての暗さは無かった。
ただひとり、楽毅を除いては──
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