かつて、アレクサンドロス大王という男がいた──
正式名称はアレクサンドロス三世。
馬其頓という強大な王国の王子として生を受けた彼は、二十歳という若さで王位を継承すると、その類稀なる統率力と人望をもって希臘、波斯といった周辺諸国を手中に収め、勢いそのままに北阿弗利加や亜細亜へと大遠征を行った。
その脅威はやがて印度に至り、いずれ中華大陸にも及ぶものと思われていた。
しかし、アレクサンドロス大王の東方遠征はそこで終焉を迎えた──
理由は定かではないが彼は軍を引き上げると、最後は巴比倫(バビロン)の地で熱病に冒され、わずか三十二年という短い生涯に幕を閉じた、と伝えられている。
その伝説的な偉業により『大王』、『征服王』として死後も畏怖される存在となったアレクサンドロス三世。
彼によって切り拓かれた路はやがて東西間の文化を結びつけ、両者の文化交流と交易の発展に大きく寄与することとなった。
♢
中東地方──
そこは東西間を結ぶ重要な拠点として繁栄の一途を辿っているが、ひとつ街中から外れればそこはもう、灼けつくような熱砂が粉雪の如く舞い上がり、容赦無く体にまとわりつく荒野であった。
偉大なる大王も通ったであろうその荒野を、麻衣を頭から覆い被ったひとりの人物が、栗毛の駿馬を駆り疾走している。
それを追う騎馬集団の影がある。
十騎ほどのその集団はすべて白装束に身を包み、ひと言も声を発すること無く淡々と馬を駆る。
はじめは数キロメートル程あった両者の間隔はどんどんと詰まり、ついには数百メートルにまで縮まっていた。
麻衣の者はここより遥か東の中華大陸から馬を走らせ、今までほぼ不眠不休で走行してきた。人馬共にすでに疲労困憊で、その脚色は明らかに衰えているのだ。
──これまでか……。
喉の渇きも忘れてしまうくらい走り続けて来たが、馬の体力の限界を感じた麻衣の者はその場で下馬し、
「今まで頑張ってくれてありがとう」
そう言って馬の首筋を撫でて労い、最後に残った水を分け与えてから野に放った。
すぐさま追いついた白装束の集団は下馬すると麻衣の者を一斉に取り囲み、無言のまま腰に帯びた剣を抜く。
白装束の者達は、どうやら麻衣の者の命を狙っているようだ。
「相変わらずしつこい上に、あきれるくらい無愛想な奴らね」
囲まれた者は彼らを一瞥すると億劫そうに呟き、麻衣を脱ぎ捨てる。
刹那、あらわになった長い紅毛が陽光に照らされ、まるで焔をまとったかのようにふわりと舞い踊る。
それは若く、凛とした佇まいの美しい女であった。
クルミの如く大きな瞳を備えた童顔は少女のあどけなさを感じさせるが、まとっている革の甲冑越しからも際立つ豊満な肉づきは、大人の妖艶さを醸し出していた。
女は剣を抜き、碧い宝石の如く鮮やかな虹彩を宿した双眸を向けると、
「澄ました顔して女の尻ばかり追っかける寡黙助平。そんなことだから嫌われるのよ」
挑発するように言い放つ。
しかし、白装束の男達はまるで何も聞こえていないかのように、生気がまるで感じられない無感情な面持ちのまま、じわじわと詰め寄る。
それはまるで、人形の行進の如く不気味な光景であった。
──無反応か……。
刹那、女の背筋につう、と冷や汗が伝う。
ろくな剣技も持たぬ彼女の言動のすべては虚勢でしかなく、怒りだとか嘲りでも構わないから、何かしらの反応を示してくれた方がよほど気が楽であった。
幼いころから苦楽を共にし、命を賭して彼女を守護してきた頼れる親友はもういない。
助けを求めようにも、他に人っ子ひとり見当たらない。そもそも、誰か通りかかったとしてもそれが彼女を助けてくれるとは限らない。
ここはもう、敵の領土内なのだから。
女は覚悟を決めると肺いっぱいに空気を吸いこみ、
「アナタ達の求めているモノはここにあるわ! さあ、わたしを殺して奪い取ってみせなさいッ!」
自らの胸元に手を添え、声を大にして精一杯のはったりを顕示するのだった。
やはり何の反応も示さぬまま、白装束の者たちは剣を振り上げる。
──どうせ死ぬのなら、ひとりでも多く道連れにしてやるわ!
剣を握る手が、じわりと汗ばむ。
と、その時だった──
西の方角より砂煙を巻き上げながら、武装した騎馬集団が駆けて来る。
五十騎くらいであろうか。
相変わらず無表情な面持ちでそれを見やった白装束の者たちは、やはり何の感情も発露させぬまま剣を納めると再び馬に跨がり、元来た路を引き返して行くのだった。
「……助かった」
どっ、と脱力する女。
武装集団は女の前で下馬すると、
「姫様! 姫様ぁぁぁぁぁッ‼︎」
その頭らしき老将が白髪を振り乱し、顔をくしゃくしゃに乱しながら一目散に駆けて来る。
「おお、爺や‼︎」
二人はひしと抱き合い、再会を喜び合う。
「東方で姫様らしき人物の目撃情報があったとの情報を得て、いても立ってもいられず馳せ参じました」
「心配を掛けてしまいましたね。申し訳ございません」
女の謝辞に、老将はかぶりを振った。
「姫様がご無事で何よりです。ですが、一体なぜここまでおいでになられたのですか? それもおひとりで……」
「……奴らの魔の手が、ついに中華大陸にまで及びました」
神妙な面持ちで答える女のその言葉に、老将は驚愕で顔を強張らせた。
「おお、何ということだ。姫様の安全を期する為に中華大陸までお連れしたというのに……」
「いずれこうなる運命だったということでしょう……」
紅い髪の女は儚げに呟くと、憂いを帯びた瞳を天へと向ける。
頭上では一羽の鳶が蒼海を遊泳するかの如く優雅に旋回している。
──せめて、あのコたちだけでも自由に羽ばたいて欲しい。
女は大切な者たちのことを思い、憂えた。
しかし、それも叶わぬ願いであることを彼女は悟っていた。
──わたしは、あのコたちを救うつもりでいたのに、結局のところ修羅の道へと誘(いざな)ってしまったのかも知れない。
だとしたら、自分は外道だ──
女は自責の念に駆られ、そっと目を伏せた。
「それで、西の情勢はどうなっているのでしょうか?」
気持ちを切り替え、女は問うた。
「はい。隻眼のアンティゴノス亡き後、その子であるデメトリオスが失地回復を果たしたものの、その後敵の攻撃著しく劣勢を強いられております」
「厳しいのですね……」
老将の言葉に、女は嘆息を禁じ得なかった。
「ですが、姫様が戻られれば味方の士気は大いに上がることでしょう。それに、アレがあれば敵も迂闊に手を出せなくなるはずですし」
「爺や。そのことなのですが──」
刹那、女はおもむろに服の胸元を開いて見せる。
「ひ、姫様……まさかッ⁉︎」
いつも彼女が肌身離さずに所持していたはずのものがそこに無い事に気づいた男は、狼狽気味に叫ぶ。
「アレは置いて来ました。ですが、わたしが持っていることにしておけば……」
「姫様はその為に……その為に危険を冒してここまでやって来たのですね⁉︎」
彼女の真意を悟った老将は堪え切れずに流涕する。
女は男を慰めるようにその背中を抱きしめ、もう一度上を見やる。
──天よ、運命の環よ。どうかあのコたちによき邂逅と幸を与え賜え!
女は、運命というものの残酷さを呪いながら、その一方で糸の如(ごと)くか細くあえかなる希望に縋らずにはいられないのだった──
♢
刻は紀元前──
処は中華大陸──
七つの強国・七雄がしのぎを削る、春秋戦国時代──
これは、運命という荒波に翻弄されながらも混沌の時代を力強く駆け抜けた少女たちの野心の物語である──
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