翌朝──
楽毅達一行は、昨晩逗留した趙軍の陣営を発った。
趙軍が取り囲んでいるであろう東垣の|邑《まち》を避け、直接国都である霊寿を目指す。
予定通り進めれば明日には到着するはずだ。
霊寿に近づくにつれ、家族と久々に会えるよろこびが膨らむ楽毅。しかし、今はそれをおくびにも出す訳にはいかなかった。
敵将である趙与が、彼女達を見送る為に同行しているからだ。
出立前、楽毅達と同じ商人の出で立ちで現れた趙与がそれを希望したのだ。
当然楽毅達は丁重に断った。しかし彼は、これも任務、と譲らなかった。任務とはすなわち、これから侵攻予定である中山領の偵察である。
それが分かっているだけになおさら同行させる訳にはいかなかったが、無下に断る事も出来なかった。今の楽毅は飽くまでも商人であり、中山人である事を悟られてはならないからだ。
ならばいっそ、趙与を捕らえて人質にするという考えが頭をもたげたが、すぐにそれを打ち消した。
──そんな仁義に悖る行為、齋和なら絶対にしないわ。
楽毅は自嘲し、趙与の見送りを受ける事にしたのだった。
「なるほど。中山国はやはり山道が険しいですな。攻めるのに難儀しそうです」
地面に敷きつめられた落ち葉に足を何度も取られそうになる趙与。彼は馬車にも乗らずわざわざ徒歩を選んでいる。もちろん、地形を頭の中に叩きこみ、戦いに役立てる為だ。
楽毅達は趙与を──趙軍を欺き、武器を土産に帰国しようとしている一方で、趙与はそんな楽毅達を利用して堂々と敵地偵察を行っている。
幌馬車に乗る楽毅達は、何とも複雑な気持ちに襲われるのであった。
さらに翌日を迎え陽が傾き始めた頃、ようやく山道を抜けると悠然と広がる平原の彼方にポツンと佇む堅牢な城壁が姿を現した。
「みなさん、ようやく霊寿を視界に捉えましたよ」
馭者を努める翠はそこでいったん馬車を止め、楽毅達に告げる。
──ようやく帰って来た。
外へ出て、久し振りに目にする生まれ故郷の遠景に、感慨もひとしおの楽毅であったが、今はそれを心の内に留める。
「ではみなさん。私はそろそろ陣営に戻ります」
手拭いで首回りの汗を拭いながら、趙与が告げる。
「そうですか。この度はいろいろとお世話になりました」
楽毅達はそろって頭を下げる。もちろん、内心ではホッと安堵していた。
「いいえ、とんでもない」
さわやかな笑顔で趙与は踵を返し、
「それでは、みなさん、失礼します」
元来た道へと足を踏み出す。
しかし──
「……私の娘は今、斉の臨淄に留学しておりましてね」
彼はすぐに立ち止まると、楽毅達に背中を向けたままひとり言のように語り出した。
「その娘がくれた書簡の中に、中山国出身の紅毛碧眼を持った学友の事が書かれていたのですよ」
瞬時に、楽毅の顔色が青ざめる。
「とても聡明で、とても思慮深く、とても美しい子だと、娘はうれしそうに綴っておりました」
楽毅は呆然と開口したまま立ち尽くす。
楽乗も何となく事情を察し、趙与の背中に警戒の眼差しを向ける。
「ああ、すみません。羊毅どのが娘の学友と何となく印象が似ていたもので、ついムダ話をしてしまいました」
そう言って振り返る趙与。そこにあるのは穏やかな笑み。しかし、その目には先程まで見せる事の無かった鋭い眼光をにじませていた。
──間違いない。趙与どのはわたしが中山国の楽毅であると気づいている。
楽毅はそう悟った。
趙奢が父と定期的に書簡のやり取りをしていた事は知っていた。おそらく、何気ない日常の出来事を綴っていたのだろう。しかし、趙と中山国が交戦する事になろうとは、その時の趙奢は予想だにしなかっただろう。
「もしも……貴女方が楽毅という娘に会う事があったら、どうか伝えていただきたい」
「……何と?」
楽毅は気を持ち直し、何とか言葉を発する。
「娘と仲良くしてくれて大変感謝している。しかし、戦場で見える事があったなら、全力をもって叩きつぶす、と」
そう言う趙与の顔から笑みは完全に消えていた。穏やかでどこか頼りない印象はこれっぽっちもなく、趙国の将軍としての毅然たる姿がそこにはあった。
──これこそ、将の鑑だわ。
楽毅は感嘆を禁じ得なかった。
敵国の者であっても受けた恩は必ず返し、それが成されれば余計な情は一切持たない。
趙与は敵国人である楽毅を娘との誼からわざと見逃してくれた。しかも、そんな人情的なやり取りの中で、楽毅は自国に堂々と武器を持ちこみ、趙与は堂々と敵国偵察を行う、という抜け目の無さをも互いに示して見せたのだ。
「必ずや、お伝え致します」
趙与の思いを粋に感じ取った楽毅は、それに応えるように胸を張って答えた。
趙与は軽くほほ笑むと再び背中を向け、山道を下って行く。
──趙与どのは、きっとわたしの前に立ちふさがる強敵となる。
しばらくその背中を見送りながら、楽毅はそんな予感を感じるのだった。
臨淄を発ってからおよそひと月──
楽毅達はついに霊寿の城門をくぐった。
実に一年半ぶりの帰郷となる楽毅は、その喜びを今度は包み隠すこと無く発露させるのだった。
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