「楽乗よ」
「ひゃいッ⁉︎」
突然孟嘗君から名を呼ばれ、楽乗は調子の抜けた返事になってしまう。
「どうか楽毅を支えてやってくれ」
「は、はい! この命に替えまして、必ず!」
大きな声で力強く答えると、叩きつける様に床に頭をつける。
ふむ、と孟嘗君は満足げにうなずいた後、
「馮、驩。この部屋にワシら以外誰もおらぬな?」
と黒ずくめの従者に問う。
「はい。猫の仔一匹おりません」
そうか、と孟嘗君は呟き、
「よいか楽毅。これよりワシは田文姫から齋和に戻る」
ふわり、と上衣の裾をなびかせながら高座から降りる。
驚いた楽毅であったがすぐに察し、上半身を完全に起こす。
楽毅の前で孟嘗君は──齋和は腰を下ろし、その手を握った。
「楽毅よ……。ワシはな、自分の人生をメチャクチャにした運命とやらを大いに恨んでおる。普通の娘として普通の人生を送れたならば、と何度も思った……」
静かに語り出す齋和。
五月五日に生まれたばかりに喪失した普通の人生──
【八紘の宝珠】を持ち、それを扱えるが故に、その力を欲する者達に狙われ続ける日々──
望まない不老不死の体──
以前にも彼女の数奇な運命にまつわる話を聞いた事があったが、そこにはまだまだ語り尽くせない様々な思いがあったのだろうと楽毅は感じた。
「どうやら運命はオヌシを……それに趙奢と田単をも巻きこんでしまうようじゃ。澪の言葉を借りれば、【天輪】の理に大いに関わる事になるらしい」
それは楽毅にとって初耳であった。
『縁というものは真に奇なるもの。齋和という大きな力に惹かれてここに来てみれば、その周囲で新星の如くか弱き瞬きを放つ者達に出逢えた』
思い返してみると、確かに陰陽道の求道者である澪は楽毅達を見てそんな事を言っていた。あの時は何の事か分からなかったが、きっと自分も、そして趙奢と田単も、齋和の様に激動のただ中に身を投じる事になるような予感を楽毅は感じた。
「澪の視立て以外にも様々な理不尽や不条理を痛感する事じゃろう……」
しかし、楽毅に悲観は無かった。
目の前にいる敬愛する者と同じ運命の中に生きられる──
敬愛する者に少しでも近づける──
むしろそんな高揚感さえ覚えるのだった。
「運命に身を任せるもよし。抗うもよし。じゃが、その答えを急いてはならぬぞ。ワシとて、これからどう生きるべきかいまだに路を見出せておらぬ。迷い、悩み、とことんまで考え抜くのじゃ」
「いろいろ教えてくれてありがとう、齋和。その言葉、決して忘れないわ」
楽毅も齋和の手を力強く握り返して応える。
齋和は微笑み、小さくうなずいた。
「運命とは実に憎らしいものじゃな。数えきれぬほどの試練を課しておきながら、一方ではこうしてすばらしき出逢いを与えてくれるのじゃから」
「齋和……」
その言葉に、楽毅の碧色の瞳から熱いものが再びあふれ出す。
「なんじゃ、楽毅。また泣いておるのか? ほんにオヌシは泣き虫じゃのう」
「そうよ。わたしはあの時とちっとも変わらない泣き虫。でも齋和。アナタだって泣いているわよ?」
そう指摘され、齋和は上衣でボロボロとあふれ出す涙を拭った。
「ワシとて、人の子じゃ。友との別れの時くらい……グスン、……涙を流すのじゃ」
さっきまで笑っていた齋和も、今では外見相応の少女の様に泣きじゃくる。
「わたしの為に……グスッ、……泣いてくれるのね? ありがとう」
「うわぁ~~~ん! 楽毅……。楽毅ィィィ!」
二人は抱き合い、人目もはばからず号泣した。まるで幼子の様に。
永遠の別離ではない。
しかし、再会の時は決して近くはないという予感があり、しばしの惜別を共に胸に刻むのだった。
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