競馬──
この時代、それは貴族や王族といった高貴な者の為の娯楽であった。
規定は単純明解で、自分の所有馬と相手の馬とを戦車を引かせた状態で速さを競わせ、その勝敗に金銭を賭ける、というものである。
しかし数年前、斉の宰相である孟嘗君はこの競馬に画期的な方式を取り入れさせた。それは、所有馬を持たない一般市民でも一着になる馬を予想して勝馬投票券(馬券)を購入することで誰でも賭けに参加出来るというものだ。
これにより、王族・貴族達だけの間にしかなかった金銭の流れがより広く流動化されたのだ。
さらに孟嘗君は、競馬の博戯性を高める為に概算配当率という方式を導入した。これは確率を数値化したもので、これによって的中率が導き出せるようになった。つまり、同じ賭け金でも概算配当率の違いによって的中した場合の還元金が大きく変化し、時には百倍を超える高額な払い戻し金が発生する競走も生まれる事となった。
孟嘗君が考案したこれらの方式は大当たりし、胴元である国の財政は大いに潤った。
もはや斉の競馬は、国家予算の多くを担う優良事業なのだ。
その恩恵により、馬主である貴族達は自ら金銭を賭けずとも配当金という形で収入を得られるようになり、今や馬の飼育係や調教師などは立派な高給取りであった。
臨淄競馬場──
楽毅は齋和と名乗る少女に導かれ、王宮の東にある巨大な会場の前に立っていた。
「ねえ……ここって競馬場よね?」
慣れない場所とあふれ返る人ごみに戦々恐々とする楽毅。
そうじゃ、と前を行く|齋和《さいか》は人の波をものともせず、場内へとズンズンと突き進む。
「楽毅は競馬場は初めてか?」
「ええ。初めてだわ」
そもそも、うら若き乙女が来るような場所ではない。周囲を見回せばほとんどが男性で、そこかしこに腰を降ろし、酒を飲んで管を巻いている者も多く見られた。
しかし齋和はそんな中を、まるで自宅の庭のようにスイスイと進んで行く。
「なかなか楽しい所じゃぞ」
そう言って齋和は、『換金所』と書かれた立て札のところへやって来る。
「おっ、姐さん。久し振りじゃないですか~」
札の傍らに座っている従業員らしき中年男性は、齋和の姿を見るとパッと顔をほころばせて声をかける。
「うむ。最近忙しくてのう」
齋和は話をしながら懐から一枚の札を取り出し、それを男に渡す。
「この前ボロ負けしたから、悔しくて泣き寝入りしているのかと思ってましたよ」
「ぬかせ。今日は勝ちまくって前回の借りをキッチリ返してやるわい!」
憎まれ口に少女は笑って返す。
そんなやりとりを経て男からいくらかの金を受け取った齋和は、
「オヌシにも協力してもらうぞ」
そう言って楽毅の背中をポンと叩く。
「でもわたし、競馬なんて初めてだし、相馬眼があるワケでもないわよ?」
「よいよい。オヌシなりの意見を聞かせてもらえれば、それで充分じゃ」
自信満々の少女の背中を楽毅は追った。
「まずは下見所じゃ」
競走場から少し離れた放牧地にやって来た齋和は、やや興奮気味に言った。
「下見所って何?」
「出走前の馬を一般に公開する場所じゃ。馬の状態を自らの目で確かめられるぞ」
そう言って彼女が指さした場所を見ると、柵で囲まれた草地に数字の記された布を下げた数頭の馬の姿があった。
元気よく駆け廻っているもの、モリモリ草を食べているもの、横になってくつろいでいるものなど、その様子は実に個性的であった。
「一番有力視されておるは五番の馬じゃな」
齋和が竹簡に目をやりながら言った。
「それは何?」
「この竹簡か? これは次の競走に出走する馬の記録を記したものじゃ。予想参考用として販売されておるのじゃ」
斉の競馬はそこまで本格的なのか、と楽毅は思わず感嘆をもらした。
「五番の春雷号は王の所有馬で、戦績も六戦六勝の負け知らずじゃ……。悔しいがこの馬がド本命じゃろうな」
『五番・春雷』と記された布をまとい一心不乱に草を食べている芦毛の馬を、齋和はなぜか苦々しい表情で見つめていた。
「確かに馬格も他の馬より一回り大きいし、食欲も旺盛みたいね」
「ふむ。あの馬は前走から三ヶ月の休養をとり、英気を養っていたらしいからのう」
「へえ、そんな事まで書かれているのね」
楽毅は竹簡をのぞきこみ、すぐに、あら、と何かに気づいた様に声を上げる。
「どうしたのじゃ?」
「うん。あの春雷号は千六百メートル以下の競走にしか出た事が無いみたい」
「そうじゃな。短距離向きの馬なんじゃろう」
「でも、次の競走は二千四百メートルよね? かなりの距離延長なのに、普段通りの力が発揮出来るものなのかしら?」
「ふむ……。競争馬には適正距離やそれぞれに見合った脚質というものがある。そう言われると確かに危ういかもしれぬな」
楽毅の言葉に齋和はしきりにうなずく。
「それに、前走の時より体重が十六キロ増ってなってるけど、もしこれが調教不足によるものだとしたら、この体重増は不利になると思うの」
「なるほど。休養時の体重増を絞り切れておらんとなれば、いくら実力馬とて苦しい競走になるであろうな」
齋和は続けて、
「短距離だけでは飽き足らず、中長距離にまで手を伸ばす。強欲で身のほど知らずなあの男らしいやり方じゃな」
と、なぜか楽しそうに笑うのだった。
「よし、この競走は五番を切ってもよさそうじゃな」
方針を定めた齋和は、竹簡と競走馬を交互に注視する。
「ううむ、しかし他の馬の戦績はどれもドングリの背比べじゃなァ。どうじゃ、楽毅。どれか気になる馬はおらぬか?」
「そうねェ……。強いて挙げるなら八番の馬かしら。体が引き締まっていながらトモがすごく充実していて、毛艶もキレイでとても優雅な馬体をしていると思う」
楽毅は悠然と闊歩する栗毛の馬を指さし答える。
「ほう。八番の流星号は元将軍の田忌どのの所有馬か」
「誰の馬かって、重要なことなの?」
「うむ。競走馬の管理に力を入れている者とそうでない者がおるからのう。その点では八番は申し分無いな。過去の戦績はあまり芳しくないが、どれも三千メートルを超える長距離のレースばかり使っておった。逆に距離短縮で一変あっても不思議ではない」
齋和はポンと両手を重ねると、
「よし、八番の一点賭けに決めたぞ。人気も十頭中五番手と妙味があるしのう」
そう言ってさっさと下見所を後にする。
「ちょ、ちょっと。そんな簡単に決めちゃっていいの? わたし、シロウトなのよ?」
「構わぬ。当たるも八卦。当たらぬも八卦じゃ」
サバサバとした口調で答える齋和。
──不思議なコだわ。
楽毅は少女の背中を追いながらそんな事を思った。
一方的に振り回されているはずなのに、いつの間にか不快な気持ちは失せ、今では少女の一挙手一投足にハラハラしている自分が楽しいとさえ感じるのだった。
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