翌日──
楽毅は楽邸の離れにこもっていた。
昨晩、楽峻の呼びかけでそこに集められた霊寿の工人達に彼女は、これから突貫であるものを製造するよう依頼していた。
その為の場所として充分な広さのあるこの離れを提供し、今、楽毅と工人達が詰めの話し合いを行っていた。
「おお、楽毅。ここにいたか」
人の多さに多少戸惑いながら、楽峻が足を踏み入れ声をかける。
本来は来客をもてなす為に設えたこの場所が、いかつい男達と彼らが用意した工具によって埋め尽くされている様に違和感を禁じ得ない様だ。
「お疲れ様でございます、父上」
楽毅と工人達が一斉に礼を向ける。
「首尾はどうだ?」
「はい。これから実際に製造に取りかかっていただくところです。順調にいけば五日程ですべて完成するそうです」
「そうか……」
楚鉄がみっしりと納まった箱に目を落としながら、楽峻は全く気の無い返事を漏らす。
「そちらはどうやら、うまくいかなかったようですね?」
楽毅のその言葉に、楽峻は自分が浮かない顔をしている事に気づき、苦笑した。
「ああ、その通りだ。我が君は『斉以外であれば外交の使者を遣わすのを許す』、と仰せであった」
「左様でございますか」
もはや生理的とも言える中山王の斉に対する嫌悪感を考えれば、それは予想の範囲内であった。しかし、傲慢で閉鎖的思考の中山王が他国との外交を允許したのは実に稀有なことであり、それは楽毅にとっても予想だにしなかった事であった。
──愚昧な王も、少しは危機感をいだいたのかしら?
最良の道は閉ざされたが、まだわずかな希望があると、楽毅は感じた。
「趙軍が三方から一気に攻め寄せて来る、と献言したところ、宰相どのに、何をバカな、と鼻で笑われた。我が君も恐らく同じ思いであっただろう」
しかし、その希望は父からもたらされた言葉によってあえなく打ち砕かれた。
中山国の宰相は司馬熹という。老齢ではあるが幾度も宰相を努める程に王からの信頼も厚い人物である。しかし、彼の優れたところは政治手腕では無く自己保身の為の処世術であった。言葉巧みに王の機嫌を取り、己にとって邪魔な存在は全て排除し、身近な存在を重用させてきた佞臣の典型と言える。
故に司馬熹にとって、代々続く忠臣の出自であり実直で人望もある楽峻は目の上のこぶのような存在であり、楽峻もまた同じ様な思いをいだいていた。
「それから、楽毅。お前はこのたび将軍に任命された。これから主力のひとりとして軍を率いてもらう事になる」
「わたしが将軍に⁉︎」
その報告は正に寝耳に水であった。
せいぜい五千人将くらいであろうと踏んでいた楽毅は、思いも寄らない重職に戸惑いの色を隠せなかった。
「王や宰相のご裁断とはとても思えません」
「うむ。お前が将軍に抜擢されたのも、我が君が他国との外交に允許を下したのも、実はすべて太子のお口添えによるものなのだ」
「太子が……?」
楽毅は首をかしげた。
彼女は中山国の太子と面識は無かったが、眉目秀麗で世事に通じており、刻苦勉励の人である、という評判だけは聞きおよんでいた。
もしも太子が世評通りの人物であれば、中山国はまだまだ未来への展望が描ける事だろう。
しかし、楽毅は期待をいだかなかった。
──噂なんて都合の良いようにいくらでも流布できるわ。
世評と現実の乖離など、ざらである。
楽毅も臨淄にいた頃はまず最初に世評を元に人との交流を求めており、そういった経験は何度もあった。
人には必ず一長一短がある──
楽毅は多くの人との交流でそれを肌で感じ、清濁を合わせ吞んだ先にこそ、人としての深みが体現される事を知った。
だから太子の様に良い評判しか聞かない人物程、それを鵜呑みにしてはならないのだ。
「私も驚いたよ。宰相どのは失笑していたしな。ともあれ、お前は私と同じ将軍に選ばれた。おめでとう」
しかし、そう言う楽峻の顔はやはり浮かなかった。
娘の異例の昇進をよろこびながらも、死地へと赴かなければならない事を考えると、父親としては複雑な気持ちなのだろう。
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう尽力いたします!」
それを顧慮した楽毅は、父の不安を吹き飛ばすように笑顔で、はつらつと応える。
「うむ……」
それでも楽峻の表情は晴れず、気の無い言葉を吐く。
「どうやら、父上の想念はどこか別のところにあるようですね?」
「うぬっ⁉︎」
楽毅の言葉に、彼は驚きの色をあらわにした。
「……やはり、顔に表れていたか。まだまだ私も未熟だな」
やれやれといった具合に自嘲すると、楽峻はようやく本題を語り出した。
「実はな、その太子がお前との面会を求めているのだ」
「太子がわたしに……ですか?」
楽毅は驚いた。がしかし、父が思い悩む理由がそこに見当たらなかった。
「うむ。帰り際に私の元に寄られてな。明日の昼時にでもぜひ、街でも散策しながら話がしたいとおおせなのだ」
「わたしでしたらもちろん構いません。大変光栄な事です。しかし、街を歩きながらというのは、また変わった引見でございますね?」
散歩が太子のご趣味なのかしら、と首をかしげる楽毅に、
「よいか、楽毅。これはただの謁見ではない。逢引きなのだよ、逢引き」
真剣な眼差しで楽峻はそう言った。
「……で、でぇとォォォォォォォッッッ⁉︎」
しばらくキョトンとした顔で惚けていた楽毅だったが、ようやくその言葉の意味を理解すると今度は素っ頓狂な声で叫んだ。
離れた場所で談笑していた工人達が、何事とばかりに一斉に振り返る。
「た、太子がわたしと逢引きだなんて……こ、困ります」
楽毅は赤ら顔になって尻ごみする。昔から異性の友達がおらず、臨淄でもまったく浮いた話の無かった楽毅は、もちろん逢引きなどした事が無かった。
「お前が斉に兵法留学していた事をお伝えしたところ、いたく興味をいだかれてな。恐らくその時の話をお聞きになりたいのだろう」
その言葉に、ようやく楽毅は合点がいった。
太子の母──すなわち中山国の正妃は斉の王室から嫁いで来た公女である。もちろんそれは、両国間にまだ交流があった頃の話だ。おそらく母の故郷の今の様子を楽毅から聞き、それを母に語り聞かせるつもりなのだろう。
「そういう事でしたか。しかし、それを逢引きと呼ぶのは些か大げさではありませんか?」
「街中で異性が二人寄り添い歩けば、それはもう立派な逢引きだ。たとえ話に色気が無くともな」
そういうものなのでしょうか、と楽毅はますます半信半疑になって首をかしげる。
「よいか。これは好機なのだ」
楽毅の両肩に手を置き、いつに無く真剣な眼差しで楽峻は言った。
「最初は些細なきっかけで良い。だが、そこで太子に好印象を抱かせる事が出来れば、そこから本当の恋愛へと発展するかもしれないのだぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 父上は先程から一体何をおっしゃっているのですか?」
「太子を堕とせ、と言っているのだ」
「ああ、そういう事でしたか……って、えェェェェェェェェェッッッ⁉︎」
楽毅はまたも素っ頓狂な声を上げ、再び周囲の視線を一身に浴びた。
「ち、父上はわたしに何を求めているのですか? もし政略結婚の道具としか見ていないのでしたら、わたしは今すぐにでもこの地を去りますからね!」
楽毅は羞恥と怒りの色をあらわに父を睨めつけた。
女だから、という一方的な理由で男の為すがままに人生を定められる事を何よりも嫌う彼女にとって、父の思惑は到底受け入れられるものではなかった。
「そう怒るな。もちろん、お前の気持ちは私にもわかる。しかしな、これは楽家の為──否、中山国の為なのだ」
「国の為?」
楽峻は大きくうなずいた。
「たとえば、だ。飽くまでもたとえば、の話だ」
くどいくらいに強調して、彼は続けた。
「お前が太子に気に入られて妻として迎え入れられたとしよう。斉に対して蟠りの無い次期国王とその妻となったお前が協力し合えば、国の外交方針を転換する事が出来る。そうは思わないか?」
「それはまあ、確かに……」
自分がもしも政治の要職にあったなら、すぐにでも斉との外交を再開させるのに、と歯がゆい思いをいだいた事は一度や二度ではない。
太子の正妻として夫を内助し宮廷内の風潮を変える事ができたなら──
現王や宰相一派は当然それを許さないだろうが、楽峻の様な忠臣は少なくないはずであり、彼らをまとめ上げて何とかそれに負けない派閥を作り上げれば──
現王と宰相一派を駆逐し、太子が新国王に──
──そしてわたしは。
そこまで想像して楽毅はようやく我に返り、脳裏にこびりついた夢想を振り払うようにかぶりを振った。
「すまんすまん。今の話は忘れてくれ。お前はただ太子と休息の時間を楽しんでくれればそれでよい」
そんな娘の姿を見たは楽峻あっさりと手の平を返し、なぐさめるように彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。
しかし彼は胸の内で、満更でもない、という手応えを感じて大いに期待をいだくのだった。
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