臨淄の街を後にした楽毅と楽乗は、寂寥の広野を進む。
──臨淄を出るのはひと月ぶりくらい、か。
ふと思い返す楽毅。
その時は東にある即墨の邑を訪ねたが、彼女達の足は逆の西を向いている。
斉と中山の両国は隣接していない上に今は国交も無く、直接中山国へ帰る事は出来ない。初めて斉に入国した時と同様に、いったん趙を経由する事となる。
おそらく国都である邯鄲を出立した趙軍は、もうすでに中山国との国境付近に達した頃であろうか。どの道、国境付近は警戒が厳しく、その網を抜けるのは容易では無いだろう。
あえて北を目指して燕の国に入り、そこから中山国へ向かうという道筋もあるが、それではあまりにも時間がかかり過ぎる。
結局、楽毅達は趙を経由する道を選び、まずは昌国という邑を目指す事となった。
「大丈夫ですか、楽乗さん?」
道中ずっと涙ぐんでいる楽乗に声をかける。
「す、すみません。部外者のクセにこんなに取り乱してしまいまして」
鼻をすすりながら答える楽乗。
彼女は先程の楽毅と齋和の別れにもらい泣きし、それが今も続いているのだ。
「ですが、楽毅お姉様は本当にすばらしい方とご交誼を持たれていらっしゃるのですね」
「ええ。本当にそう思います……」
楽毅は一度足元を見つめてから、スッと視線を前に戻す。
「それにしても孟嘗君との拝謁が叶った事も驚きましたが、あの屋敷の構造にはさらに驚かされました」
楽乗が感嘆交じりに呟く。
楽毅は小さくうなずいた。
あの時──楽毅達が齋和の屋敷を訪ねた時──齋和の待つ大部屋にたどり着くまでに荘厳な庭園を抜け、ぐるぐると入りくんだ回廊を通り、ゆうに十五分は経過していたはずであった。
しかし、その帰りに際して二人は驚くべき光景を目の当たりにした。
見送りに同行した齋和と共に部屋を抜けると回廊はただの一本道となっており、邸宅を出るとそこはもう門閾だったのだ。
振り返るがあの時拝観した庭園は影も形も無く、楽毅と楽乗はまるで狐につままれた様に、ぽかんとしてしまった。
『まだワシの着替えが済んでなかったものでな。少々暇潰しをしてもらっていたのじゃ』
齋和は笑ってそう言っていた。
──じゃあ、あれは集団幻覚? それとも、空間を操る術でも持ち合わせているの?
目の前の少女の底知れぬ力に、その時楽毅は思わず背筋を震わせていた。
確かにあの時、取次ぎに入った門番はわずか五分程で往復していたはずだ。
「どのような絡繰なのかは分かりませんが、神変不可思議とか神通自在の術とは、きっとあのような事を言うのでしょうね」
人知の及ばぬ不思議な現象に対し、楽毅は明確な答えを呈する事は避け、
──ムリにその答えを求めようとすれば、きっと道を見誤る。分からないものは分からない。今はそれでいい。
そう胸に刻みこむのだった。
それよりも、楽毅の心には澱のように凝る気がかりな事があった。
それは、齋和邸の門を抜けてさあ出立、という時の事であった。
『楽毅よ。【墨家】の者には気をつけろ』
去り際に齋和はそんな言葉を告げたのだった。
【墨家】とは、春秋時代の思想家・墨子の思想を受け継いだ宗教集団の事である。彼らは常に死に装束である白一色の衣に身を包み、〈慈愛〉や〈反戦〉などを旗印に掲げて各国を廻っている。それだけ見れば彼らは至極崇高な組織に思えるがしかし、【墨家】は戦闘集団としての顔をも備えているのだ。
反戦を掲げながら戦闘を行う事には大いなる矛盾があるが、彼らの戦いは守城にのみ展開される。独自で開発した特殊な兵器を用い、最後の一兵になっても城を護り抜く。落城は彼らにとって死を意味するのだ。
その悲壮とも言える戦いぶりは“墨守”と称され称えられた。
しかし、齋和はどういう訳か【墨家】を毛嫌いしているようだった。彼女が自分の食客を黒ずくめに染めているのは、そんな彼らに対する当てつけでもあったのだ。
もしかしたら齋和の運命に【墨家】が大きく関わっているのかも知れない。
以前彼女が語っていた、宝珠を狙っているという組織。それが【墨家】なのでは、と楽毅は思ったが、あえてそれを問う事はしなかった。
しかし、これから中山国は籠城戦を余儀なくされるだろう。
楽毅はこれまで【墨家】の者との関わり合いは無かったが、思いの他早くに関わる事になるような、そんな予感めいたものを感じてしまうのだった。
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