虎皮の衣をまとった覇王──武霊王。
若くして趙国の王位を継いだ彼は、胡服騎射という北方遊牧民の戦闘形式を取り入れて屈強な騎馬軍団を作り上げると、その類稀な戦術眼をもって瞬く間に版図を拡大していった。
その快進撃は、強国を自負する二大大国である秦と斉でさえも畏怖をいだき、このままゆけば秦、斉、趙による三つ巴の時代が訪れるのは明白であった。
河北の虎──
北の征服王──
戦国の風雲児を、人々は畏敬の念をこめてそう呼ぶのだった。
趙を一気に強国へと押し上げた英傑の武霊王ではあるが、そんな彼が戦よりも頭を悩ませているのは後継者問題であった。
先日、長子である趙章を廃嫡し、寵妃の子である趙何に太子を移譲した。
そのような独善的な裁断は混乱の素であることくらい、彼は当然理解している。だから彼は王位をすぐに移譲し、表向きは一線を退きながらも主父──すなわち王の父として趙何を背後から補佐することもすでに決定している。
しかし──
巨躯を玉座に預けて足組みをし、肘立てに置いた左腕で傾けた頭を支える武霊王の面持ちはどこか気だるげであった。
愛する女のために後継ぎをすげ替え、国の秩序を乱した愚かなる王──
もしかしたら後世にそのような汚名が残るかも知れない。それでも、今回の自身が下した決断に後悔など微塵も無かった。それが彼の精一杯の愛情表現であり、たとえ国が乱れるような結果を招こうともそれは埒外の事象であり、彼の決断を止める要因とはなり得ないのだ。
彼がそれほどまでに寵愛を向ける女性・呉孟姚──
その邂逅のきっかけとなったのは、武霊王の夢であった。
ある日、彼は夢の中でひとりの乙女と出逢う。彼女は美しく、また器用に鼓や琴を演奏し、鳥が囀るが如く美声で歌い、彼を虜にするのだった。
武霊王は夢から目覚めてからもその女性に対する興味は冷めず、家臣たちに夢に出てきた乙女の姿形を具に話してみせた。
すると、家臣のひとりで呉広という人物が、自分の娘によく似ている、と名乗り出たのだ。
そして連れてこられた呉広の娘こそ呉孟姚で、たしかに夢の中で戯れた美しい乙女によく似ており、まるで夢の中からそのまま顕現化したのでは、と思わせるほどであった。
運命的なものを感じた武霊王は彼女を妃に迎え、昼夜を問わず烈しく愛した。
そして生まれた子が趙何であった。
ふう、と微かなため息が男の口から自然とこぼれる。
今回の決断に後悔は無い。が、ひとつだけ気になることがあり、それがしこりとなって彼の胸の奥底に巣食うのだった。
──なぜ、趙何は自ら太子になることを突然願った?
武霊王の目から見て趙何は実の子でありながらその性質はまるで正反対であり、その関係はとても良好と呼べるものでは無かった。
二人の間に決定的な溝が生じたのは、数年前のとある出来事からであった。
たまさかの休日を得た彼は、子供たちを狩りに誘ったのだ。
趙豹はまだ幼な子だったので当然不参加ではあったが、趙章、趙何だけではなく、娘である趙勝姫もこれに参加した。
活発で精悍な趙章はもちろんのこと、趙勝姫も進んで弓馬の教えを乞い、兎や鹿を次々と射止めてゆくのだった。
しかし、生まれつき体が弱く運動神経も鈍い趙何だけは、武霊王が何度も指導するもののついには馬に跨ることすら出来ず、しまいには発熱して具合を悪くしてしまうという有り様であった。
やはり父親でもある武霊王にとっては自分と同じように活発的で勇敢な趙章と趙勝姫の方を可愛く思い、虚弱で消極的な趙何に対しては失望すら禁じ得なかった。
武霊王はそれを口には出さなかったものの、その一件以来武霊王は趙何との接し方に窮して避けるようになり、また趙何自身も父からの期待が薄いことを察し、余計に部屋に引きこもって書物を漁るようになったのだった。
とはいえ、武霊王は決して趙何を嫌っている訳ではない。母に似た美しい目鼻立ちと、洗練された音色を奏でる琴の腕前を、彼はとても好ましく思っている。
しかし、骨の髄まで武人である武霊王の目から見れば、やはり趙何はどこか物足りないのだ。
それでも最愛の女性のため、あえて何の期待もしていない趙何を太子に据えた。きっと趙何は最後の最後まで怖気ずき、首を縦に振ることは無いだろう。
それでも武霊王は形だけでも彼を次期国王として喧伝し、国政のすべては引き続き自らが執り行うつもりでいた。
しかし、どうであろう。
『微才の身ではありますが、太子を。そして時期国王を務めさせていただく所存でございます』
多少の逡巡はあったものの、彼は堂々とそう述べたのだった。
それは正に豹変と呼べるものであり、武霊王の知る気弱で臆病な少年の姿では無かった。
そして何よりも、今までまったくと言っていいほど武霊王とはまったく目を合わせることの無かった趙何が、はじめて父とまっすぐに向き合い、真剣な眼差しを向けてきたのだ。
──まるで正面から戦いを挑むようなあの瞳、前にもどこかで見たことがある。
武霊王はふとそう思い記憶を辿ると、
──ああ、あの紅色の髪の女だ。
すぐに心当たりにたどり着いた。
楽毅──
中山国の将として武霊王と対峙し、交渉の際には直接対面したことがある紅毛碧眼の少女だ。
彼女の奮戦により武霊王は中山国の攻略に大きく遅れを取ることとなり、武霊王自身、彼女のその才覚を大きく評価していた。
しかし、女性が戦場や政治の表舞台に立つことを嫌う彼は、決して楽毅を用いようとはしなかった。
それどころか、後に障害となることを危惧して凶手を差し向けるほどにその扱いに苦慮し、また怖れていたのだ。
──まるで刃を交えているような、あのまっすぐな眼差し……そっくりだ。
かつて使者として参った楽毅と対面しており、彼女は武霊王の恫喝じみた脅しに屈することなく、堂々と交渉の場を乗り切った。
飛ぶ鳥を落とす勢いの武霊王を前にして怯むことなく、正面からその顔を、瞳をジッと見すえることの出来た唯一の人物であった。
内気な趙何の成長に驚くと共に、自分が苦手とする人物を彷彿とさせることに心中複雑な武霊王であった。
──紅色の髪の女といえば……。
武霊王は最近耳にした巷間の噂をふと思い出した。
それは、新たに秦の玉座に就いた昭襄王──嬴稷が紅色の髪の乙女の肖像画を描かせ、それを恨めしげに毎日眺め、その乙女の所在を血眼になって探している、というものであった。
中華大陸廣しといえども、そのような色の髪を持った人物は楽毅ひとりであろうし、彼は何らかの理由で楽毅の行方を追っているということだ。
嬴稷は、前王の急死によって突然空白となった秦国の玉座に据えようと武霊王自身が中山国遠征と同時進行で庇護し、遥々燕の国から護送した少年である。
そして趙与から聞いた話によると、楽毅はそれと同時期に商人に扮してまんまと趙軍の目を欺いて中山国に帰国していたらしい。
──逢っていたとすれば、その時か。
武霊王はふう、とひとつため息をこぼし、今一度思考を巡らせる。
彼自身、嬴稷とは直接対面していない。部下から伝え聞いた話では、女好きでかなりの変わり者であるらしい。
──俺と同じだな。
ふと、武霊王の口元が緩む。
武霊王自身、若いころから常識に囚われない破天荒な性質であったために周囲の者から変わり者として煙たがられていたりもした。
城を抜け出して他の邑に赴き、そこに暮らす民を苦しめていた野盗を蹴散らしたこともあった。
虎皮が欲しいという理由だけで印度の商人を探し回り、それを高値で購入したりもした。
そんな彼だからこそ、古い慣習に囚われずに胡服騎射という制度を積極的に取り入れ、今では中華大陸最強の騎馬軍団を率いるまでになったのだ。
そして『英雄色を好む』という格言があるように、彼もご多分にもれず女性をこよなく愛している。
「ふむ」
武霊王はこの時何かを決断し、
「肥義! 肥義はおるか⁉︎」
老宰相の名を呼ぶ。
「ははっ、何でございましょう、主上。あ、いや、主父」
部屋の外から矍鑠とした足取りで白髪の老人がやって来ると、彼は玉座の前で拱手する。
「肥義よ。俺はこれから秦へ赴き、昭襄王に逢って来ることにした」
少年のように目を爛々と輝かせながら、武霊王は弾むような口調で告げる。
「は? 秦でございますか? 主父自らが交渉に向かわれるのですかな?」
「交渉ではない。偵察だ。俺の目で直接昭襄王を見てみたくなった」
「なるほど、偵察でございますか。主父自らが偵察……偵察⁉︎」
その言葉を嚥下してゆく内にだんだんと渋い顔になってゆく肥義は、
「なりませんッ‼︎」
強い口調でそう叫んだ。
「大事な御身が敵国偵察などという危険極まりないことをするなど言語道断! しかも相手は虎狼と呼ばれている秦。誰か別の者を遣わすべきです」
「この俺が自らの目で拝まなければ意味が無いのだ」
「血気盛んな若気の至りならばいざ知らず、ようやく後継者を定めた矢先ではございませぬか。主父がお強いのは重々理解しておりますが、どうかもう少し御身をいたわりくださいませ!」
その場に深々と叩頭き懇願する肥義。
長年側に仕えてきた功労者の必死な姿に、武霊王もさすがに心が痛んだ。
しかし、胸の奥に滾る熱情には抗うことは出来ない。それはまるで愛しき女との逢瀬を望む男の情念であり、止める術など誰も持ち得ないのだ。
「……肥義よ。思えばそなたとは長いつき合いであったな」
「主父……」
ひと呼吸置いてから放たれた武霊王の言葉は、いつになく穏やかで優しいものであった。
「いろいろと苦労をかけて申し訳ないと思っている。しかし、後の世代のためにも見極めなければならないのだ。将来難敵となるであろう秦の王を。だから頼む。これが俺の最後のワガママだ」
そう言って武霊王は臣下である肥義に深々と頭を下げる。
「主父、どうか頭をお上げください!」
覇王とは思えぬしおらしい言動に、肥義は思わず周章してしまう。
そして、ひとつため息をこぼすと、
「やれやれ。最後の願いとあっては私も受け入れざるを得ませんな」
ついに根負けし、苦笑と共に武霊王の提言を受諾するのだった。
「すまぬ、肥義よ」
「まあ、主父の無謀ぶりは今に始まったことではありませんからな」
そう言って互いに笑い合う。
「では明日、さっそく秦に向かいたい」
「護衛はいかがなさいますか?」
「護衛はいらん」
「それはなりませぬッ!」
刹那、白髪の老人は再び鬼の形相で一喝する。
「主父おひとりで偵察など言語道断! 必ず護衛をおつけください。それが出来なければ今回の件、やはり了承致しかねますぞ」
「だが、相手はあの秦だ。生半可な腕の者ではかえって足手まといだし、大人数で行ってはすぐに怪しまれるだけだ」
「むむむ……」
肥義は眉間に皺を寄せ、腕組みをして考えこむ。
「……主父、今しばらくお待ちください。私に心当たりがございます」
ふと何かを思いついた肥義は、拱手を残してすぐに踵を返し、老人とは思えぬ力強い足取りでその場を後にする。
「やれやれ。まだまだ長生きしそうだな」
その後ろ姿を見送りながら、武霊王は苦笑と共にひとりごちるのであった。
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