七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
チーム奇人・変人

第5話 貴様は売られたのよ

公開日時: 2021年2月12日(金) 17:24
文字数:2,223

 昼間とはいえ、幕内はひとつとしてあかりの無い暗闇で先が見えない。広いのか狭いのか。本当にここに武霊王ぶれいおうがいるのか。すべては闇の薄布ヴェールに包まれていた。


 奈落の様な暗がりの中を、楽毅がくき達は一歩一歩慎重に進んで行く。

 その時、前方でぼうっと灯火がひとつともる。すると、その周囲で一斉に灯火がともり、楽毅がくき達に道を指し示す様に左右に縦一直線の列を成す。

 突然の事に虚を突かれる楽毅がくき達。


 篝火かがりびの列の先に、ぼんやりと何かが浮かび上がる。

 それは──


 ──虎だわ!


 楽毅がくきと同じあおい輝きを放つ猛威の瞳。独特の模様に彩られた獰猛どうもうの形相は、正しく虎であった。


 このような所に虎なんているはずが無い──

 そう気を強く持ってみたものの、楽毅がくき達は動揺を隠せなかった。

 やがて視界が明瞭になるにつれ、幕内はかなり広い事、灯火の前に武霊王ぶれいおうの臣下達が直立している事、その中に趙与ちょうよがいること、そして虎ではなく虎の毛皮を全身にまとった男が奥に鎮座していることがわかった。


 ──あれが……武霊王ぶれいおう⁉︎


 姫尚きしょう程の長身ではないが、細身の彼とは違い毛皮越しからでも隆々りゅうりゅうと実の詰まった体躯たいくであるのが分かる。しかと見開かれた両眼は爛々らんらんと輝き、まるで少年のような若々しさを体現している。しかしその反面、ざんばら髪に無精髭を蓄えた相貌は逆に老獪ろうかいな策士といったていを窺わせる。


 しばし呆然としていた楽毅がくき達だったが、意を決して歩みを再開し、篝火かがりびかれた列の間を直進する。武霊王ぶれいおうの臣下達の突き刺すような鋭い視線が降り注がれる中を、楽毅がくき達三人は気圧けおされまいと精一杯胸を張った。


 そして、虎皮をまとった男の前で拝礼するやいなや、


「なるほど。噂通りの紅毛碧眼こうもうへきがんだな。此度こたびの戦、小賢しい策をろうしたのは貴様か、楽毅がくき?」


 すぐに武霊王ぶれいおうから低く冷酷な声を浴びせられる。


「いかにも。わたしでございます」


 楽毅がくきは臆する事無く、ハッキリと答えた。

 ほう、と言って武霊王ぶれいおうは嘆息を漏らした。


中山国ちゅうざんこくでこのような策をろうする者は、せいに留学して孫子そんしの兵法を習得した貴様くらいだという事は、すでにこちらの諜報で調べがついておる。白を切るつもりなら叩っ斬っていたところであったぞ」


 冗談か本気かわからないその言葉に、楽乗がくじょうすいは反射的に眉をひそめる。

 しかし、当の楽毅がくきは全く意に介さず、全て趙与ちょうよからもたらされた情報なのだろうと、冷静に考察していた。


「ご慧眼けいがん恐れ入りました」

「心にも無い事を言う」


 深々と頭を下げる楽毅がくきに、武霊王ぶれいおうの口元がわずかに緩む。しかし、その目は寸分ちっとも笑っていなかった。


「だが、貴様がこうしてやって来たという事は、講和の条件を呑むと理解してよいのだな?」

「はい。我が国の三邑さんゆうを献上いたします」

三邑さんゆうだと?」


 武霊王ぶれいおう怪訝けげんそうに声を上げる。と同時に、周囲に控える家臣達もにわかにざわめき立つ。


「……そうか、そういう事か」


 やがて何かを察したようにひとつうなずくと、武霊王ぶれいおうは子供のように大口を開けて呵々大笑かかたいしょうする。それに同調する様に、周囲から一斉に哄笑こうしょうが湧き起こる。


 楽毅がくきはなぜ笑われているのか訳がわからず首をかしげる。


「お前達、何がおかしいのだ!」


 耐え切れなくなった楽乗がくじょうは勢いよく立ち上がり、武霊王ぶれいおうに向けて怒気をあらわにする。

 気に障ったのなら謝ろう、と虎衣とらごろもの男は笑みを含んだまま楽乗がくじょうを制し、


「それにしても講和の条件がたったの三邑さんゆうとは、ずいぶんと安く見られたものだな。俺なら十邑じゅうゆういや霊寿れいじゅを要求していた事だろうよ」


 事情が呑みこめない三人を無視して独り言を漏らす。


「それは一体どういう事なのですか?」


 楽乗がくじょうの服の袖を引いて座るように制する楽毅がくきは、武霊王ぶれいおうに説明を請うた。


「まだ分からぬか? 貴様は売られたのよ。貴様が仕える小賢しき小国の王にな」

「売られた?」


 思わぬ言葉に、狐につままれたような顔をする楽毅がくき

 そうだ、と武霊王ぶれいおうはうなずいた。


三邑さんゆうなどすぐにでも落としてみせる。それよりも俺が恐れるのはただひとつ。お前の存在だ、楽毅がくきよ」


 武霊王ぶれいおうはすっくと立ち上がり、紅い髪の少女を指し示した。


「わた……し?」

「そうだ。俺にとって中山国ちゅうざんこくの攻略など、中華大陸に覇を唱える為の序章に過ぎぬ。しかし、だからこそこのような場所で立ち止まっている訳にはいかぬのだ」


 獅子のごとく雄々しき声で武霊王ぶれいおうはうそぶいた。


楽毅がくき。貴様はそんな俺の覇道を遅らせた。しゃくではあるがその才は認めざるを得まい。だから俺は貴様を欲したのだ。貴様さえいなければ中山国ちゅうざんこくなどすぐにでも落とせるのだからな」


 武霊王ぶれいおうのその言葉に、楽毅がくき達はそろって、あっ、と声を上げた。


 まちではなく、武霊王ぶれいおうは実は楽毅がくきを求めていたという事実に驚くと共に、主君である中山王ちゅうざんおうはそれを告げずにあっさりと家臣を切り捨てた事を、彼女達はようやく悟ったのだ。


「そんな……」


 信じられないとばかりに、楽毅がくきは視線を虚空に漂わせながら狼狽ろうばいする。


 いや、本当はわかっていたのだ。己の仕える主君はどんなに忠義を尽くそうともその思いは通じず、平気で家臣を切り捨てる冷酷な男である事を。

 しかし、信じたくはなかった。どんなに王にさげすまれようとも、命をして国を護ると誓ったのに。そんな悲壮の決意さえも踏みにじられるとは。


「お姉様……」


 心配そうに声をかける楽乗がくじょう。しかし、楽毅がくきは小刻みに体を震わせたまま言葉を発する事は無かった。


 このように動揺した楽毅がくきの姿を見るのは、楽乗がくじょうは初めてだった。幼い頃から冷静クールで。そして、斉での留学後は人間的にひと回り多くなって。楽乗がくじょうにとって楽毅がくきは今も昔も尊敬すべき理想の女性像である事に変わりは無かった。

読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート