昼間とはいえ、幕内はひとつとして灯の無い暗闇で先が見えない。広いのか狭いのか。本当にここに武霊王がいるのか。すべては闇の薄布に包まれていた。
奈落の様な暗がりの中を、楽毅達は一歩一歩慎重に進んで行く。
その時、前方でぼうっと灯火がひとつ灯る。すると、その周囲で一斉に灯火が灯り、楽毅達に道を指し示す様に左右に縦一直線の列を成す。
突然の事に虚を突かれる楽毅達。
篝火の列の先に、ぼんやりと何かが浮かび上がる。
それは──
──虎だわ!
楽毅と同じ碧い輝きを放つ猛威の瞳。独特の模様に彩られた獰猛の形相は、正しく虎であった。
このような所に虎なんているはずが無い──
そう気を強く持ってみたものの、楽毅達は動揺を隠せなかった。
やがて視界が明瞭になるにつれ、幕内はかなり広い事、灯火の前に武霊王の臣下達が直立している事、その中に趙与がいること、そして虎ではなく虎の毛皮を全身にまとった男が奥に鎮座していることがわかった。
──あれが……武霊王⁉︎
姫尚程の長身ではないが、細身の彼とは違い毛皮越しからでも隆々と実の詰まった体躯であるのが分かる。しかと見開かれた両眼は爛々と輝き、まるで少年のような若々しさを体現している。しかしその反面、ざんばら髪に無精髭を蓄えた相貌は逆に老獪な策士といった態を窺わせる。
しばし呆然としていた楽毅達だったが、意を決して歩みを再開し、篝火が焚かれた列の間を直進する。武霊王の臣下達の突き刺すような鋭い視線が降り注がれる中を、楽毅達三人は気圧されまいと精一杯胸を張った。
そして、虎皮をまとった男の前で拝礼するや否や、
「なるほど。噂通りの紅毛碧眼だな。此度の戦、小賢しい策を弄したのは貴様か、楽毅?」
すぐに武霊王から低く冷酷な声を浴びせられる。
「いかにも。わたしでございます」
楽毅は臆する事無く、ハッキリと答えた。
ほう、と言って武霊王は嘆息を漏らした。
「中山国でこのような策を弄する者は、斉に留学して孫子の兵法を習得した貴様くらいだという事は、すでにこちらの諜報で調べがついておる。白を切るつもりなら叩っ斬っていたところであったぞ」
冗談か本気かわからないその言葉に、楽乗と翠は反射的に眉を顰める。
しかし、当の楽毅は全く意に介さず、全て趙与からもたらされた情報なのだろうと、冷静に考察していた。
「ご慧眼恐れ入りました」
「心にも無い事を言う」
深々と頭を下げる楽毅に、武霊王の口元がわずかに緩む。しかし、その目は寸分も笑っていなかった。
「だが、貴様がこうしてやって来たという事は、講和の条件を呑むと理解してよいのだな?」
「はい。我が国の三邑を献上いたします」
「三邑だと?」
武霊王は怪訝そうに声を上げる。と同時に、周囲に控える家臣達も俄にざわめき立つ。
「……そうか、そういう事か」
やがて何かを察したようにひとつうなずくと、武霊王は子供のように大口を開けて呵々大笑する。それに同調する様に、周囲から一斉に哄笑が湧き起こる。
楽毅はなぜ笑われているのか訳がわからず首をかしげる。
「お前達、何がおかしいのだ!」
耐え切れなくなった楽乗は勢いよく立ち上がり、武霊王に向けて怒気をあらわにする。
気に障ったのなら謝ろう、と虎衣の男は笑みを含んだまま楽乗を制し、
「それにしても講和の条件がたったの三邑とは、ずいぶんと安く見られたものだな。俺なら十邑、否、霊寿を要求していた事だろうよ」
事情が呑みこめない三人を無視して独り言を漏らす。
「それは一体どういう事なのですか?」
楽乗の服の袖を引いて座るように制する楽毅は、武霊王に説明を請うた。
「まだ分からぬか? 貴様は売られたのよ。貴様が仕える小賢しき小国の王にな」
「売られた?」
思わぬ言葉に、狐につままれたような顔をする楽毅。
そうだ、と武霊王はうなずいた。
「三邑などすぐにでも落としてみせる。それよりも俺が恐れるのはただひとつ。お前の存在だ、楽毅よ」
武霊王はすっくと立ち上がり、紅い髪の少女を指し示した。
「わた……し?」
「そうだ。俺にとって中山国の攻略など、中華大陸に覇を唱える為の序章に過ぎぬ。しかし、だからこそこのような場所で立ち止まっている訳にはいかぬのだ」
獅子の如く雄々しき声で武霊王はうそぶいた。
「楽毅。貴様はそんな俺の覇道を遅らせた。癪ではあるがその才は認めざるを得まい。だから俺は貴様を欲したのだ。貴様さえいなければ中山国などすぐにでも落とせるのだからな」
武霊王のその言葉に、楽毅達はそろって、あっ、と声を上げた。
邑ではなく、武霊王は実は楽毅を求めていたという事実に驚くと共に、主君である中山王はそれを告げずにあっさりと家臣を切り捨てた事を、彼女達はようやく悟ったのだ。
「そんな……」
信じられないとばかりに、楽毅は視線を虚空に漂わせながら狼狽する。
いや、本当はわかっていたのだ。己の仕える主君はどんなに忠義を尽くそうともその思いは通じず、平気で家臣を切り捨てる冷酷な男である事を。
しかし、信じたくはなかった。どんなに王に蔑まれようとも、命を賭して国を護ると誓ったのに。そんな悲壮の決意さえも踏みにじられるとは。
「お姉様……」
心配そうに声をかける楽乗。しかし、楽毅は小刻みに体を震わせたまま言葉を発する事は無かった。
このように動揺した楽毅の姿を見るのは、楽乗は初めてだった。幼い頃から冷静で。そして、斉での留学後は人間的にひと回り多くなって。楽乗にとって楽毅は今も昔も尊敬すべき理想の女性像である事に変わりは無かった。
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