「楽毅お姉さんは密集方陣をご存知だったのですか?」
砦の天幕内でひと息吐く楽毅に翠が訊ねる。彼女は先程の野戦で楽間と共に楽毅に同行していた。
「密集方陣? 何ですか、それは?」
「先程お姉さんが用いていた、長槍と大盾の重装歩兵による密集陣形です。あれは元々希臘で古くから用いられたもので、馬基頓のアレクサンドロス大王もよく用いていた陣形です」
「そうだったの? 知らなかったわ……」
楽毅は驚いた顔で言った。
「本当に知らなかったのですか?」
ええ、と楽毅はうなずき、
「わたしはただ、趙軍の主力である騎馬隊を足止めする為に、と考えて長槍と大盾を作らせたのですが……。やはり先人は偉大ですね」
虚空に目をやり、そう呟いた。
楽毅は、邯鄲で購入した楚鉄で長槍と大盾を製造し、それを姫尚と楽峻の軍にも授けて対騎馬隊の備えとしていた。
たとえ勝てなくても良い。敵を冬まで──雪が積もって撤退を余儀無くさせるまで足止め出来ればそれで充分だと思った。三方の内どこかひとつが抜かれたとしても、それだけでは霊寿は陥落しない。武霊王の目論みを防いだ事になるのだ。
「しかし、誰から教わったでも無く昔の偉人と同じ戦法を考え出すのですから、やはりお姉様はスゴイです」
楽乗が興奮気味に言った。
彼女は先程は砦の留守を護っていた為に、その密集方陣を実際には見ていなかった。
「ありがとうございます。それで、楽乗さんには今夜、わたしと一緒にもうひと働きしていただきたいのですが」
楽毅の言葉にキョトンとした楽乗であったが、
「喜んでお供致します」
すぐに彼女の意向を察し、笑顔で応えた。
その日の深夜──
シンと寝静まる趙軍の陣に、五千の中山軍が灯火も音も無く接近していた。入り組んだ山路も、地形を知り尽くした中山人であれば容易に下る事が出来た。
「では手はず通り最初は北西へと切りこみ、次に東、返す刀で南西に抜けてください」
「三角形を描くように敵陣を撹乱するのですよね。お任せください」
楽毅の確認に、楽乗達中山兵がうなずく。
騎馬隊が馬のハミを外す。
「突撃ッ!」
楽毅の掛け声と共に中山軍は静寂を破り、趙軍の陣営へと一斉に雪崩こんだ。炬火は倒され、その火が幕舎や天幕に燃え広がる。
慌てて飛び起きた趙兵が盛んに、敵襲、夜襲、と叫ぶが、彼らは甲冑を身につける間も無く突然闇から現れた中山軍に斬り伏せられていった。
擾乱して右往左往する趙兵に対し、中山軍はひと言も言葉を発する事は無く、それが趙軍の恐怖心をなおさら煽るのだった。
中山軍は南西の方向に縦断すると踵を返し、糸を通すように今度は東の方向へと突き進んでいった。
「お前は、いつぞやの商人ではないか⁉︎」
昼間も聞いたあの胴間声が楽毅の足を止めさせる。
燃え盛る幕舎の傍で、趙の太子で後軍大将の趙章が、馬上の楽毅を睨み上げていた。その隣にはその側近である田不礼が控えている。
「その節は大変お世話になりました、趙章様。おかげで無事に帰国する事が出来ました」
楽毅は皮肉をたっぷりとこめてそう言った。
「き、貴様ァ! 一体何者だ⁉︎」
「わたしは中山国将軍の楽毅」
「楽毅……だと? おのれ、この俺を謀りおって‼︎」
趙章が腰に帯びた剣を抜いて切りかかろうとするが、田不礼に抑えられて引きずられるようにしてその場から離れてゆく。
覚えておれ、という怨嗟の声だけが虚しく響いていた。
結局趙軍は潰走し、元いた東垣近辺へと引き上げていった。
たった一日で趙章率いる趙軍は三千もの死傷者を出し、緒戦は楽毅の完勝であった。
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