七国伝

ーSHICHIKOKUDENー
チーム奇人・変人
チーム奇人・変人

第2話 必ず武霊王を討つ

公開日時: 2021年3月16日(火) 10:57
文字数:2,660

 その日の夜──


 楽毅がくきたちは姫尚きしょうの前にひざまずき、報告をした。


 ちょう軍の本陣の位置を突き止めたこと──

 そして、明後日の早朝にその本陣を奇襲すること──


「……そうか。奇襲を行うのか……」


 窓辺にたたずみそこからのぞく漆黒のそらを見上げながら、姫尚きしょうは静かにつぶやいた。


「このような陋劣ろうれつな策しか思いつかず、大変申し訳ございません……」

「いや、この国をそこまでの窮地に追いやってしまったこの私にこそ責任がある。お前が気に病むことは無い」


 姫尚きしょうはそう言って席に戻り、


「では、具体的な段取りを聞かせてもらおう」


 王としての風格を充分に漂わせる凛々しい口調で言った。

 はい、と言って楽毅がくき姫尚きしょうの前に地図の記された大きな白布を広げ、説明を始める。


「それでは、こちらをご覧ください。わたしたちの砦はこの位置にあり、すいに調べてもらって判明したちょう軍の配置はこれ。そして、武霊王ぶれいおうがいるであろう本陣の位置は……こちらになります」

「……よくここまで調べられたものだ」


 地図上に記された記号を眺めながら、姫尚きしょうは感嘆を漏らした。


「ご覧のとおり、わたしたちは各所に配置されているちょう軍の目を盗み、遠く離れた本陣を迅速に強襲しなければなりません」

「まず、敵本陣に辿り着くまでに、早くても半日はかかる距離にあるな。そこまで敵に気づかれずに移動するのは至難の業であろう」

「はい。普通であればすぐに悟られてしまい、敵の虚をくのは難しいです。しかし、霧に乗じて移動すればいかがでしょう?」

「霧だと?」


 意外な言葉に、姫尚きしょうは思わず身を乗り出した。


「たしかに、霧の中であれば敵の目も届かず密かに移動するのも可能かもしれない。だが……まさか、明後日の朝に霧が発生するとでも言うのか?」

「はい。天候の先読みに詳しい方がおりまして、高い確率で明後日未明、発生するとのことです。今、その方には念のために呼沱水こたすいまで行っていただき、より綿密な調査を行っております」

「そうか……。地の利のある中山人ちゅうざんびとであれば、霧の中でも目的地まで移動できる。だから、あらかじめに霧が発生する時間帯を把握していれば、それだけ素早く行動ができ、敵本陣まで安全に接近できる訳か……」


 姫尚きしょうはそう言ったきり、しばらく考えこんでいたが、


「よし、その策でいこう。詳細な進行は楽毅がくき、お前に全て一任する」


 立ち上がり、決意を口にした。



 そして奇襲決行当日──


 中山ちゅうざん軍三千の兵は、深夜に夜陰に乗じて抜け穴から密かに砦を脱した。

 その際、無人の砦に旗を掲げたままにし、人に見立てた藁人形を複数体立て、いつもと変わらぬ状況を作り上げた。それが偽装であることに敵が気づくのは、おそらく霧が晴れてからになるだろう。


 彼らは地理に明るい者を先頭に、篝火かがりびをひとつも焚くこと無く、ただ黙々と前進を続けた。

 時が経つにつれ、どんどんと気温が下がってゆくのが身に染みて分かる。特にこの晩は、まるで冬に逆戻りしたかのような厳しい底冷えであった。

 しかし、それは霧が発生するのには好条件であり、この奇襲が成功する確率が上がる、ということに他ならない。


 ──このような下策、孟嘗君もうしょうくんはどう思うかしら?


 移動の最中、楽毅がくきはふと思った。


 かつて臨淄りんし孟嘗君もうしょうくんと別れた時、楽毅がくきちょうとの対戦に際して優良な手段として、戦わずして勝つ、と述べていた。外交を駆使し、ちょう中山国ちゅうざんこくに対して容易に手出しが出来ない状況を築き上げる、というのが当初の楽毅がくきの目標であった。


 しかし、現実はどうであろう。

 結局、外交上の劣勢をくつがえすことは出来ずに領土はことごとく削られ、今ではたったひとつの城すら持たぬ流浪の衆だ。


 思えば、戦を避けられなかった時点ですでに雌雄が決していたのかもしれない。

 友人たちには、自分の力がどこまで通用するのか知りたい、などと偉そうに豪語していたのに、実際はこのザマである。


 ──いけない。今は目の前にある困難に集中しないと。


 楽毅がくきは小さくかぶりを振り、夜空を見上げた。薄雲のヴェールに包まれ、おぞましいまでに赤みがかった満月が彼女たちを俯瞰ふかんしている。今はその妖しくかすかな光だけを頼りに、ひたすら突き進んでゆく。



 やがて夜が明け始めたころ──


 りょうの先読み通り、凍えるような寒さと共に辺りに霧が立ちこめ始め、瞬く間に深くて濃い白色が世界を染め上げていった。


 すいの偵察から、この近辺には敵部隊が複数配置してあるはずだ。目論もくろみ通り霧は敵の目から姿をくらまし、隠密に移動する中山ちゅうざん軍に味方するのだった。


 まるで雲海の中を漂っているような宛ての無い道行きを、三千の兵が息を殺しながら突き進む。

 彼らの顔に明らかな疲労がにじみ出す。しかし、少しの遅れが作戦の失敗を招くため、わずかな時間でも休む訳にもいかなかった。



 やがて日が高くなって気温が上昇してゆくにつれ、糸がほぐれるように少しずつ霧が晴れてゆく。

 そして遂に、兵舎の群れが──緑に染め上げられたちょうの旗と総大将の所在を示す帥旗すいきが眼下に明瞭はっきりと映る位置にまで達したのだった。


 ──遂に……ここまで来た。


 第一の目標を達成し、わずかではあるが兵士たちの疲労感が薄れてゆく。


「皆、よくここまでがんばった」


 大樹の側に立ち、姫尚きしょうが周囲に語りかける。


「しかし、これで終わりでは無い。我々の目的はただひとつ、武霊王ぶれいおうの首級を挙げること、ただそれだけだ」


 彼を見つめる兵士たちの目に、再び生気がともる。


「三千対一万では無く、三千対一だ。相手は武霊王ぶれいおうただひとり。それ意外には目もくれるな」


 姫尚きしょうはそう言ってきびすを返し、眼下にあるちょう軍を指差し、


「かかれッ!!」


 高らかに叫んだ。

 獣の咆哮のごとく雄々しき声と、地鳴りのごとく勇ましき行軍で、楽毅がくきたち中山ちゅうざん軍は一斉に敵陣のど真ん中へと雪崩なだれこんでいった。


 ──必ず武霊王ぶれいおうを討つ!


 先陣を切った楽毅がくきは腰にたずさえた剣を抜き、状況がわからず右往左往するちょう兵を斬り伏せてゆく。

 しかし、手に力が入りすぎたのか、振り下ろした剣が楽毅がくきの手からスルリと抜け落ちてしまう。


 ──しまった!


 そう思うと同時に、目の前にいたちょう兵が彼女に向けて剣を振り上げる。

 死を覚悟したその時、そのちょう兵の体から袈裟斬りに血が吹き出し、膝から崩れ落ちた。


楽毅がくきお姉様。私の側から離れないでください!」


 重厚なげきで敵兵を薙ぎ払いながら、楽乗がくじょうが彼女の前に躍り出て呼びかける。


「そうです、楽毅がくき姉さん。あまりムチャはなさらぬように」


 風のような速さで両手の匕首ナイフを巧みに操りながら、すいも前へ出る。


「姉上、共に参りましょう!」


 剣を構えた楽間がくかんが、笑みと共に彼女の側に寄り添う。


「みなさん……ありがとうございます!」


 勇気を得た楽毅がくきは、少しずつではあるが確実に前へと進んで行った。

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