その日の夜──
楽毅たちは姫尚の前に跪き、報告をした。
趙軍の本陣の位置を突き止めたこと──
そして、明後日の早朝にその本陣を奇襲すること──
「……そうか。奇襲を行うのか……」
窓辺に佇みそこから臨く漆黒の天を見上げながら、姫尚は静かにつぶやいた。
「このような陋劣な策しか思いつかず、大変申し訳ございません……」
「いや、この国をそこまでの窮地に追いやってしまったこの私にこそ責任がある。お前が気に病むことは無い」
姫尚はそう言って席に戻り、
「では、具体的な段取りを聞かせてもらおう」
王としての風格を充分に漂わせる凛々しい口調で言った。
はい、と言って楽毅は姫尚の前に地図の記された大きな白布を広げ、説明を始める。
「それでは、こちらをご覧ください。わたしたちの砦はこの位置にあり、翠に調べてもらって判明した趙軍の配置はこれ。そして、武霊王がいるであろう本陣の位置は……こちらになります」
「……よくここまで調べられたものだ」
地図上に記された記号を眺めながら、姫尚は感嘆を漏らした。
「ご覧のとおり、わたしたちは各所に配置されている趙軍の目を盗み、遠く離れた本陣を迅速に強襲しなければなりません」
「まず、敵本陣に辿り着くまでに、早くても半日はかかる距離にあるな。そこまで敵に気づかれずに移動するのは至難の業であろう」
「はい。普通であればすぐに悟られてしまい、敵の虚を衝くのは難しいです。しかし、霧に乗じて移動すればいかがでしょう?」
「霧だと?」
意外な言葉に、姫尚は思わず身を乗り出した。
「たしかに、霧の中であれば敵の目も届かず密かに移動するのも可能かもしれない。だが……まさか、明後日の朝に霧が発生するとでも言うのか?」
「はい。天候の先読みに詳しい方がおりまして、高い確率で明後日未明、発生するとのことです。今、その方には念のために呼沱水まで行っていただき、より綿密な調査を行っております」
「そうか……。地の利のある中山人であれば、霧の中でも目的地まで移動できる。だから、あらかじめに霧が発生する時間帯を把握していれば、それだけ素早く行動ができ、敵本陣まで安全に接近できる訳か……」
姫尚はそう言ったきり、しばらく考えこんでいたが、
「よし、その策でいこう。詳細な進行は楽毅、お前に全て一任する」
立ち上がり、決意を口にした。
そして奇襲決行当日──
中山軍三千の兵は、深夜に夜陰に乗じて抜け穴から密かに砦を脱した。
その際、無人の砦に旗を掲げたままにし、人に見立てた藁人形を複数体立て、いつもと変わらぬ状況を作り上げた。それが偽装であることに敵が気づくのは、おそらく霧が晴れてからになるだろう。
彼らは地理に明るい者を先頭に、篝火をひとつも焚くこと無く、ただ黙々と前進を続けた。
時が経つにつれ、どんどんと気温が下がってゆくのが身に染みて分かる。特にこの晩は、まるで冬に逆戻りしたかのような厳しい底冷えであった。
しかし、それは霧が発生するのには好条件であり、この奇襲が成功する確率が上がる、ということに他ならない。
──このような下策、孟嘗君はどう思うかしら?
移動の最中、楽毅はふと思った。
かつて臨淄で孟嘗君と別れた時、楽毅は趙との対戦に際して優良な手段として、戦わずして勝つ、と述べていた。外交を駆使し、趙が中山国に対して容易に手出しが出来ない状況を築き上げる、というのが当初の楽毅の目標であった。
しかし、現実はどうであろう。
結局、外交上の劣勢を覆すことは出来ずに領土は悉く削られ、今ではたったひとつの城すら持たぬ流浪の衆だ。
思えば、戦を避けられなかった時点ですでに雌雄が決していたのかもしれない。
友人たちには、自分の力がどこまで通用するのか知りたい、などと偉そうに豪語していたのに、実際はこのザマである。
──いけない。今は目の前にある困難に集中しないと。
楽毅は小さくかぶりを振り、夜空を見上げた。薄雲の絹に包まれ、おぞましいまでに赤みがかった満月が彼女たちを俯瞰している。今はその妖しく幽かな光だけを頼りに、ひたすら突き進んでゆく。
やがて夜が明け始めたころ──
良の先読み通り、凍えるような寒さと共に辺りに霧が立ちこめ始め、瞬く間に深くて濃い白色が世界を染め上げていった。
翠の偵察から、この近辺には敵部隊が複数配置してあるはずだ。目論み通り霧は敵の目から姿を晦まし、隠密に移動する中山軍に味方するのだった。
まるで雲海の中を漂っているような宛ての無い道行きを、三千の兵が息を殺しながら突き進む。
彼らの顔に明らかな疲労が滲み出す。しかし、少しの遅れが作戦の失敗を招くため、わずかな時間でも休む訳にもいかなかった。
やがて日が高くなって気温が上昇してゆくにつれ、糸が解れるように少しずつ霧が晴れてゆく。
そして遂に、兵舎の群れが──緑に染め上げられた趙の旗と総大将の所在を示す帥旗が眼下に明瞭と映る位置にまで達したのだった。
──遂に……ここまで来た。
第一の目標を達成し、わずかではあるが兵士たちの疲労感が薄れてゆく。
「皆、よくここまでがんばった」
大樹の側に立ち、姫尚が周囲に語りかける。
「しかし、これで終わりでは無い。我々の目的はただひとつ、武霊王の首級を挙げること、ただそれだけだ」
彼を見つめる兵士たちの目に、再び生気が点る。
「三千対一万では無く、三千対一だ。相手は武霊王ただひとり。それ意外には目もくれるな」
姫尚はそう言って踵を返し、眼下にある趙軍を指差し、
「かかれッ!!」
高らかに叫んだ。
獣の咆哮の如く雄々しき声と、地鳴りの如く勇ましき行軍で、楽毅たち中山軍は一斉に敵陣のど真ん中へと雪崩れこんでいった。
──必ず武霊王を討つ!
先陣を切った楽毅は腰に携えた剣を抜き、状況がわからず右往左往する趙兵を斬り伏せてゆく。
しかし、手に力が入りすぎたのか、振り下ろした剣が楽毅の手からスルリと抜け落ちてしまう。
──しまった!
そう思うと同時に、目の前にいた趙兵が彼女に向けて剣を振り上げる。
死を覚悟したその時、その趙兵の体から袈裟斬りに血が吹き出し、膝から崩れ落ちた。
「楽毅お姉様。私の側から離れないでください!」
重厚な戟で敵兵を薙ぎ払いながら、楽乗が彼女の前に躍り出て呼びかける。
「そうです、楽毅姉さん。あまりムチャはなさらぬように」
風のような速さで両手の匕首を巧みに操りながら、翠も前へ出る。
「姉上、共に参りましょう!」
剣を構えた楽間が、笑みと共に彼女の側に寄り添う。
「みなさん……ありがとうございます!」
勇気を得た楽毅は、少しずつではあるが確実に前へと進んで行った。
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