中山兵全員と惜別の握手を交わす姫尚。その最後の相手は楽毅であった。
「楽毅よ。思えばお前には何から何まですべて世話になってばかりであったな」
姫尚からの言葉を、楽毅は目を潤ませながら静かに聞いている。
「お前のおかげで、私は母の故郷に移ることが出来る。本当に感謝している」
「……微才の身にはもったいないお言葉でございます」
恐縮する楽毅。しかし、それでも彼女は中山国を存続させられず、終いには護るべき主君であるはずの姫尚が犠牲になる形で逆に自分たちが生かされているという事実に、いまだ拭いきれないわだかまりがあった。
そして、彼女には、姫尚に伝えなければならないことがあった。
ひと呼吸置いてから、楽毅はそれを切り出した。
「姫尚どの……。以前アナタは、わたしのことをひとりの女性として好いている、と仰ってくださいました。わたしは……とてもうれしかったです。男の方からそのような言葉をいただいたのは、初めてでしたので……」
「楽毅。その件はもう──」
返事は不要と言った手前、止めようとする姫尚。楽毅はそれを制するように小さくかぶりを振り、続きを語り出した。
「以前、姫尚どのに抱きしめていただいた時、わたしは今まで感じたことのないくらいの胸の高鳴りを覚えました。とても温かくて、とても切なくて、とても不思議な充足感を」
ですが、と一拍置いてから、彼女は再び語り出した。
「それとは別に、わたしの胸の奥底には野心が燃え滾っているのです。名を挙げたい……歴史の中にこの名を燦然と輝がやかせたい! 今のわたしは、その思いに抗えそうもありません。わたしは色恋よりも自分のやりたいことを択んでしまうようなじゃじゃ馬なので」
自嘲と共に、彼女なりの答えを伝える。
「そうか……。その方がお前らしいのかもしれないな」
結果的にフラれた形となった姫尚であったが、それでも晴れやかな笑みを浮かべると楽毅の肩にポンと手を置き、
「お前の活躍、期待しているぞ」
それを別れの言葉とし、数名の趙兵と共に彼女たちとは違う方向へと歩んで行った。
東の大国、斉へと続く道へ──
──姫尚どの……。どうかお元気で。
楽毅は去りゆく背中に向けて頭を下げ、彼の前途を祈り、それを惜別の言葉とした。
もう二度と会えないのか。はたまた、どこかで再会できるのか。
その答えは、運命という名の潮流の先にあるのかも知れない。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!