魚釣りの依頼報酬は、ディータが銅貨八枚、プランディラが銅貨十二枚になった。
魚二匹で銅貨一枚なのだが、プランディラが釣った「池の主」が規定よりも大きかったため、追加報酬が出たのだ。
「この銅貨十二枚は私の家宝にしたいですわ」
「それは子孫が困惑しますね」
アルトゥルはそう言って、プランディラの家宝は、自分の家宝になるのかと思った。
ちなみに、釣った魚をそのまま持って帰るのは密漁扱いになり、魚を買い取る場合は一匹、銅貨一枚になる。
こうして、アルトゥルにとって難関であったデートも無事に終了し、家路についたのだが、彼の受難はむしろこれからだった。
「アルト――私に黙って遊びにいくなんていい度胸じゃない」
家に帰るなり、エリーザベトが仁王立ちで待ち構えていたのだから。
「エリー義姉さん……えっと、これは――」
アルトゥルがどう言っていいか困っていると、プランディラが一歩前に出た。
「はじめまして、エリーザベト様。私はプランディラ・フォン・モーランドと申します」
「私はエリーザベト・フォン・ホーエンドフトよ。よく来たわね」
「義姉さん! プラン様はモーランド伯爵家の御令嬢だよ。もっと丁寧な言葉遣いで!」
「あら? でもアルトの婚約者ってことは、私の義妹でしょ? なら、問題ないじゃない」
エリーザベトはこういう性格だった。
この家に来たときも、本家とか分家とか、そういう上下関係を一切感じさせない雰囲気で、そのときは随分アルトゥルも助けられたが、今回はそれが災いしたと思った。
しかし、プランデイラは違った。
「ふふう、そうですね。では、私もエリー義姉様とお呼びしてよろしいでしょうか?」
「そうね――でも、同い年なんだし、特別にエリーって呼び捨てにしていいわよ」
「ありがとう、エリー。私のこともプランって呼んで」
「わかったわ、プラン。じゃあ、私の部屋に来て! プランに見せたいものがあるの」
あっという間に仲良くなったエリーザベトとプランディラは、アルトゥルを置いて部屋に戻っていった。
エリーザベトの機嫌がよくなったのはいいが、自分だけ除け者にされた気分がした。
「女性とはそういうものでございます、アルト坊ちゃま」
セバスチャンの慰めが、アルトゥルの心に染みた。
その日の夕食は、昨日リヒャルトが言った通り、普段の料理と比べると豪華なものになった。随分無理をしているように思え、明日以降の食事が心配になるほどだった。これだけならまだしも、別の部屋ではここまでプランディラを護衛してきた冒険者の食事と酒も提供している。大赤字だ。
プランディラはよく教育の行き届いたお嬢様で、アルトゥルの家族とも直ぐに打ち解けた。
プランディラは今日の釣りのことや、冒険者ギルドで登録したことなどをとても嬉しそうに話していて、さらにアルトゥルに冒険者カードを買ってもらったことをとても嬉しそうに語った。それを聞いたエリーザベトが少し不機嫌そうな顔になったが、直ぐに何かを思いついたように意地悪そうな顔を浮かべる。
「アルト、今度は私の冒険者の仮登録をお願いできるかしら? もちろんアルトのお金で」
「え? でも僕、そんなにお金がありません。義姉さんは僕よりお小遣いをもらっているではありませんか」
「そんなの全部使っているに決まってるでしょ。それとも、婚約者にはプレゼントできて、私にはプレゼントできないっていうの?」
「こら、エリー、あまり無茶を言うものではない。お金は私が出すから、アルト、今度エリーを冒険者ギルドに案内してあげなさい」
明日はプランディラの見送りがあるから明後日にするようにリヒャルトは言った。
アルトゥルはそれでも面倒だと思ったが、エリーザベトがとても寂しそうに、
「それじゃ意味がないのよ」
と消え入るような声で言ったことでアルトゥルは大切なことを思い出した。
「いえ、お父様。お小遣いを少し貯めているので、エリー義姉さんの分のギルドカードを僕がプレゼントしようと思います。冒険者ギルドに行きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、そうよ。それでいいの」
アルトゥルがそう言うと、リヒャルトではなく、エリーザベトは満足したように頷いた。その表情を見て、彼女以外の誰もが苦笑した。
「アルト様、少しよろしいでしょうか?」
その日の夜、扉がノックされ、プランディラの声が聞こえた。
アルトゥルは扉を開ける。
「どうしたのですか? こんな夜に」
「少し話がしたくて参りました」
「わかりました。僕もちょうど読書をやめて休憩しようと思っていたのです。どうぞお入りください」
そう言って、アルトゥルはプランディラを招き入れた。
アルトゥルは読んでいる途中の本を書棚に戻し、椅子を引いてプランディラを座らせる。
「お茶を淹れさせましょうか?」
「いえ、もう寝る前ですから……お茶を飲んだら眠れなくなりますわ」
「そうですね。じゃあ僕が飲んでいたホットミルクがあります。どうぞ」
そういって、水差しに入れていたミルクをカップに注ぎ、ナプキンの上に置いた。
厨房で貰ったミルクを、こっそり火の魔法で温めていたのだ。
「ありがとうございます」
「いえ、本当ならミルクに合うお菓子も用意したいのですが」
「寝る前にお菓子を食べれば虫歯になりますわ」
「母にもそう言われたことがあります」
本当は、余分なお菓子を持っていないだけなのだ。
収納されているもののうち食べられるものは、魔物から剥ぎ取った肉だけで、唯一甘味と呼べるのは、虫型の魔物の幼虫だった。
美味しいのだが、さすがに魔物の幼虫を伯爵家のお嬢様に食べさせるわけにはいかない。今度、ティーダとしてお金を貯めたら、こっそり甘味を買って収納しておこうと決めた。
でも、なんでプランディラがこの時間に訪れたのかとアルトゥルは考える。
(エリー義姉さんが部屋に来るときは、お父様に怒られてその愚痴をこぼしに来るときだけど……そんな雰囲気じゃないよね? まさか――)
まさか、ディータとアルトゥルが同一人物だと気付いたのではないかと、アルトゥルは身構えた。
「改めまして、アルト様。今日一日、ありがとうございました」
「へ?」
「本当は屋敷に入ってすぐにお礼を言うつもりだったのですが、エリーに見つかって言いそびれてしまったのです」
「あ……はい。それを言うためにわざわざ」
「それもありますが、実は私はアルト様に謝らなければならないことがあるのです」
「謝らないこと?」
「私は、今回この婚約に気乗りしませんでした」
「そりゃ、伯爵家のお嬢様が准男爵家の次男坊と結婚なんて言われたら気乗りがしないのは仕方ありませんよ」
アルトゥルは予想していたので笑って済ませようとしたのだが、プランディラは違った。
「家柄の問題ではありません。相手がたとえ王族であったとしても、私は婚約したくなかったのです。なぜなら、私は母のような冒険者になりたかったのですから」
「冒険者に?」
彼女が冒険者に憧れを持っているのはわかっていた。というより、昼間一緒にいて、彼女が冒険者に興味がないなんて思うわけがない。
しかし、それはあくまで子供ならではの発言であり、本気で冒険者を目指しているとは思っていなかった。
「冒険者ですか……大変ですよ?」
「もちろん、母から聞いています」
「そうですか……僕は准男爵家の次男です。家督はタンク兄さまが継ぐと思いますから、僕はタンク兄さまを支えないといけないと思っています」
「そうですね……それが貴族の考え方だと思います」
「なので、プラン様も一緒に考えましょう」
「考える……とは、ランクレート様を支える方法ですか?」
「はい、そうです」
僕は頷き、彼女に言う。
「冒険者をしながらタンク兄さまを支える方法をです」
「……え? いま、なんとおっしゃいました?」
プランディラは耳を疑うように聞き返した。
「だから、最近でこそ水晶狼が出ましたが、この領地って魔物が少ないので、それに比例するかのように冒険者の仕事が少ないんですよ。なので、他の領地に行って仕事を探すことも視野に入れないといけませんね。この領地を支えようと思えば、月に金貨十枚くらい稼がないとですね」
「よろしい……のですか?」
「はい。だって、僕も今日の釣り、楽しかったですから」
冒険者で稼ぐのはアルトゥルの最初からの計画だった。いまはディータの姿で税金を納めるのが目的だが、大きくなったらアルトゥルとして稼ぐつもりだった。
むしろ、自分には書類仕事とか絶対に向いていないと思っている。できるといったら古文書の解読くらいだ。
「私、信じてしまいますわよ」
「女性に嘘をついたら、エリー義姉さんに怒られるんです。凄く怖いんですよ」
「それは――エリーを怒らせないようにしないといけませんわね、アルト様」
プランディラは目尻に溜まった涙を指先で拭い、そう言って笑った。
そのあと、ふたりはとりとめのない会話をした。
その話の中には、水晶狼に襲われそうになったときに助けてくれた冒険者の話もあった。
冒険者の名前がディータであることは、すでにプランディラの耳に届いていたらしい。
アルトゥルがランプの油を追加で差そうとしたところで、プランディラは自分が随分長居していたことに気付き、部屋を出ることにした。
「夜分遅くにすみませんでした。話に付き合ってくださり、ありがとうございます」
「いえ、僕のほうこそ楽しかったです。明日のお別れが少し寂しい気持ちになってしまいます」
「それは私もです……それに、あの方にお礼を言えなかったのは残念でなりません」
「あの方とは、冒険者の方ですか?」
「はい。命の恩人にまともな礼を言えないのは心残りです」
彼女はそう言うと、再度挨拶を交わして部屋を出た。
その非常に残念そうな顔を思い出し、アルトゥルは仕方がないなと収納から変装セットを取り出したのだった。
※※※
プランディラが部屋に戻り、寝間着に着替えようと思ったところで、窓が二回叩かれた。ここは二階のため、小石でも投げられたのだろうか? とプランディラはカーテンを開けた。
すると、そこにいたのは思いもよらない人物――プランディラを助けた冒険者の少年、ディータがいたのだ。
プランディラは慌てて窓を開けた。
「ディータ様っ!」
彼女がその名を叫ぶと、ディータは困ったようにプランディラの口に自分の指をあてた。
「この前といい今日といい、騒がしいお嬢様だな。そんな大きな声を出したら、家の者に気付かれてしまう」
「はっ、申し訳ありません」
憧れの人間の前ではしたない姿を見せてしまったことに、プランディラの顔が熱くなる。
すると、ディータはそんなプランディラの姿を見てくすくすと笑い、
「今日はお詫びに参った。狼を退治したら報告をすると言っておきながら、それが遅くなってしまったことに対する謝罪だ。受けてもらえるか?」
「そんな……ディータ様が謝られることではございません。私はあなたの命の恩人なのですから」
「そう言ってもらえると俺も助かる。じゃあ、そろそろ帰るとするか――」
ディータは背を向けて飛び去ろうとする。
「お願いがあります」
「お願い?」
「先ほど、醜態を見せたことで顔が熱くなって眠れそうにありません。どうか、私のほてりを冷ますために空の散歩につれていってくださいませんか?」
そういうと、ディータは肩をすくめた。
「俺はお願いを聞いてばかりだな」
「……その、申し訳ありません」
「気にするな。子供は大人にお願いをするものだ。それに、美しい淑女に頼まれるというのは、男としてそれほど悪い気はしないからな」
平然と告げるディータのキザともとれる言葉に、プランディラの顔はさらに熱くなった。
プランディラはディータに抱えられ、空へと舞い上がった。
もしも彼が手を離してしまえば、翼を失った鳥のように地面に落ちて、命を失うことになるだろう。それでも彼女の中に恐怖はなかった。
「空の上は寒いのですね」
「そんな薄着で来るからだ。ほら、これでも羽織っておけ。風よけくらいにはなる」
ディータは自分のマントをプランディラに渡した。
「ありがとうございます」
「しかし、夜の散歩は楽しいか? 昼間だったらそれは見事な景色なんだがな」
「はい、とても楽しいです」
「その割には景色を見ていないようだが……」
プランディラは景色を見てはいない。まったく見ていないわけではないが、それ以上に直ぐ近くにあるディータの横顔が気になって仕方がないのだ。
「怖いのか?」
「怖くありません」
「その割には……いや、なんでもない」
ディータはそれ以上何も言わなかった。
彼女は思った。ディータは気付いているのだろうと。
先ほどから自分の心臓の鼓動が鳴りやまないことに。
顔の火照りは、全然冷めそうにない。
にもかかわらず、少女の瞼は段々と重くなっていく。
「今度は夢の中で会いましょう」
それが、少女が聞いた少年の最後の言葉だった。
※※※
目を覚ましたとき、彼女は自分の部屋にいた。
まるで夢を見ていたような気持ちだったが、寝間着に着替えていないこと、なにより自分が大事そうにつかんでいるディータのマントが、昨晩の出来事は夢ではなかったのだと彼女にわからせた。
翌朝、プランディラはアルトゥルたちに見送られ、馬車に乗り、宿場町を目指していた。
彼女は初めて会った婚約者のことを思い出す。
冒険者になってもいいと言ってくれたアルトゥル。それはあくまでも子供の言葉であり、アルトゥルはまだ貴族の責務についてなにもわかっていないうえで言っている。彼が大きくなったら、あっさりと前言を翻すかもしれない。
しかし、いまのアルトゥルの気持ちが、プランディラには嬉しかった。
二年前母を失い、父であるモーランド伯爵に引き取られ、政略結婚させるための教育を受けてきた自分には、もう自由は訪れないのだと思っていたし、好きになった誰かと結婚できるなんてできないと覚悟していた。
でも、アルトゥルと会って思った。
(私は、あの方を愛することができるかもしれない)
嫌いではない。好きか嫌いかと言われたら好きだ。
しかし、プランディラの脳裏には一人の少年の影がちらついていた。アルトゥルのことを愛しようとと思えば思うほどに、その影がだんだんと大きくなっていく。
冒険者ギルド出張所に行ったのも、仮登録をしたいという気持ちが強かったが、同時にの少年にもう一度会えるのではないかという淡い期待があったからだ。
冒険者ディータ。
命の恩人であり、プランディラが夢に見た冒険者の理想像の全てを詰め込んだかのような少年。
普通の少女が白馬に乗った王子様との恋を望むように、彼女は昔から、魔法を自在に操る凄腕の剣士との恋を夢見ていた。
彼こそが、彼女の理想そのものであった。
一度忘れると決めたのに、いまだに忘れることができない。
そして、昨日、あの夜に再会したことでその想いはさらに強くなってしまった。
(……人間の記憶というのは、なんて厄介なのでしょう。ディータ様は私にとっての太陽なのですね。雲で覆い隠すように他のことに夢中になっても、夜が訪れるように忘れてしまったとしても、いつかは雲が晴れ、朝が訪れ、彼への想いは私の心を焦がしてしまう)
その想いは、婚約者であるアルトゥルの罪悪感となって重くのしかかる。
いつかは神の裁きを受けることになるだろう。
彼女がそう思ったときだった。
馬車が急に止まったのだ。
その場所は、ちょうど一昨日、プランディラがディータに助けられた場所だった。
「セバスチャン、どうしたのですか?」
「怪しい人陰がございまして――念のため警戒しているところです」
「怪しい人陰ですか?」
彼女は前を見て、ひとりの剣士がいることに気付いた。道の真ん中を、まるで馬車を塞ぐように立っていた。
プランディラはその剣士に見覚えがあった。
昨日、池で釣りを終えたときに彼女たちを見ていた男だった。
どうして彼が?
護衛の一人が剣士のところに歩いていった。
次の瞬間、その護衛の首が宙に舞った。
「お嬢様、急ぎ引き返しますっ!」
セバスチャンの判断は早かった。馬車を反転させようとする。しかし、それ以上に剣士の動きが俊敏だった。彼がいつの間にか投げたナイフが馬の頭に刺さり、馬は絶命して倒れた。ちょうど馬車を反転させようとしていたときだったため、その衝撃で馬車も大きく傾き横倒しになってしまった。
「お嬢様っ!」
セバスチャンが馬車の側面の扉を開けて、プランディラを引っ張り上げる。
一人を除き、護衛達はその間に剣士を囲むように展開した。
セバスチャンの横に、もうひとり護衛が一人残ったのは、あの剣士が陽動である可能性を警戒したからだ。
それが彼の生死を分けた。
次の瞬間には、剣士を囲んでいた護衛たち全員が殺されてしまったのだから。
「ヨハン、お嬢様をお頼みします」
「……わかりました」
護衛はプランディラを抱き上げた。
「セバスチャン! まさか――」
「本来、私の命は一昨日のあの日、失われているはずでした。その命、此度使わせていただきます」
「セバスチャン! ダメ! セバスチャン!」
プランディラの悲鳴が響く。
セバスチャンは愛用のレイピアを抜き、剣士に向かって走っていく。
護衛のヨハンはプランディラを抱えて反対方向に駆ける。
「ディータ様、お願い! ディータ様!」
プランディラは神に祈るように少年の名を叫ぶ。
しかし、少年はここには現れない。
誰も助けにこない。
そして、セバスチャンは――
そして、プランディラは――
まだディータは現れない。
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