その婚約は一カ月前に決まったそうだ。
モーランド伯爵家から、娘をホーエンドフト家に嫁がせたいという打診があったのだ。伯爵家から田舎の准男爵家に嫁ぐなど、卑賤結婚と言われかねない。
だからといってリヒャルトから断ることはできず、その突然の婚約は一方的に決定事項となってしまった。
「僕に婚約者というのはどういうことですか? お父様」
アルトゥルは執務室に赴き、食後も遺跡から見つかった書物の翻訳作業に勤しんでいたリヒャルトに訪ねた。
「相手が伯爵家の御令嬢であるのなら、タンク兄さんが妻として娶るべきではないですか」
「それはできないんだ。オルティラはいま一番大切な時期だからね。彼女を不安にさせることはできないのだよ」
オルティラというのは、タンクレートの妻、つまりアルトゥルにとって義姉であり、エリーザベトの実姉でもある。つまりは分家の人間だ。
現在、お腹の中に子供を宿しており、食事はアルトゥルたちと別の部屋でとっている。貴族の間では、妊娠中の女性は他の家族の前に姿を現さないのが通例だからだ。
「でも、だからといって家督を継がない僕の妻に相応しいとは思えません。伯爵家から圧力がかかる可能性もあります。そもそも、相手も長男と結婚するつもりで嫁いできているのではありませんか?」
「それが、そうでもないのだ。手紙でオルティラの事情を説明し、せめて子供が生まれるまでは待ってほしいと伝えたところ、次男のアルトでも構わない。さらにアルトに家督を譲る必要もない――そう言ってきた」
「何故そんなことが……」
「モーランド伯爵家は昔から婚姻を政治の道具として利用してきた家だ。そして、間もなく王選が始まる。中立派の貴族を少しでも取り込もうと必死なのだろう。困ったものだ」
リヒャルトはそう言って頭を抱えた。
いま、この国、ブイトーマ王国には王位継承権を持つ三人の王子がいる。
国王が死ぬと、選挙権を持つ王族、貴族たちが投票することで次期国王を決める。モーランド伯爵家は第一王子と強い繫がりを持っているため、なんとしても彼を王位につかせたいのだろうとリヒャルトは語った。
「と、こんな話はまだアルトには早かったな」
「いえ……それで、婚約が破断になることはあるのでしょうか?」
「ない――とは言えないが、それは我々が決めることではない。その意味はわかるな?」
「……はい、お父様」
相手を怒らせて婚約を破棄させろ――という意味などではない。リヒャルトがそんなことを言わないのはわかっていた。
単純に、自分には婚約を破棄できる力はないと言ったのだ。
自分の部屋に戻り、アルトゥルはため息をつく。
この年で婚約者ができるとは思わなかった。
ディータは千年以上生き続け、結果、誰とも結婚できずに転生することになったからだ。かつて、ディータには愛した女性がいたが、理由あって一緒になれなかった。
邪神を討ち滅ぼし、世界の英雄になったときには王侯貴族から婚姻の申し出があったが、彼は十年間結婚を決めかねた。そして、自分が不老の力を持ったと知ったとき、結婚を諦めたのだ。
もしも子供を授かったとき、自分の不老の力がどのように子供に作用するかわからないから。
(まさか千年以上生きて見つからなかった結婚相手が、五歳で現れることになるなんて)
相手はエリーザベトと同い年の七歳、名前をプランディラというらしい。
そして、転生して記憶を引き継いでいるといっても、アルトゥルの精神はまだ子供らしい。
エリーザベトのことを義姉だと言っていることに違和感がなかったことに今更気付き、七歳の少女が婚約者だということにも驚かなかったのだ。
(でも、それは考えてみれば当然か。もしも完全にディーダの精神のままだったらこんな風に家族のことを考えたりはしなかっただろうな)
アルトゥルは両親のことを大事に思っているし、兄のことも敬っている。きっと、勇者としての精神がそのまま引き継がれているのなら、彼にとって両親も兄も見知らぬ他人でしかなかったはずだ。
転生とはそういうものなのだと、アルトゥルは改めて実感した。
でも、だからこそ怖かった。
このまま、ディーダが愛した彼女の想いさえ、ただの記憶に変わってしまうのではないかと。
「……はぁ」
アルトゥルはため息をつき、明日をどう乗り切ろうかと部屋に戻り、ベッドに倒れこむように横になった。
プランディラの機嫌を損ねたとしても婚約が破棄になることは絶対にない。何故なら、彼女の機嫌ひとつで婚約破棄になるくらいなら、そもそもこの婚約そのものが成立しないからだ。
伯爵家の娘が好きで田舎の准男爵家に嫁入りするわけがないのだから。
「どんな子かな……いい子だったらいいのにな」
僕はそう言って目を閉じた。
そして、翌日の昼過ぎに馬車が到着し、僕は己の迂闊さを呪った。
その馬車には見覚えがあったからだ――というより気付くべきだった。昨日見かけた馬車は明らかに貴族が乗っているようなもので、中に入っていたのはアルトゥルと同い年くらいの女の子だった。
ちょっと考えれば、昨日見かけた女の子が自分の婚約者だと気付いていた。もっとも、気付いたからといってどうしようもない。
(これもラックリーナの導きか)
アルトゥルはそう思いながら、挨拶をした。
「よくぞおいで下さいました、プランディラ様」
アルトゥルとともに、出迎えに赴いたリヒャルトがそう言って頭を下げた。
「プランディラ様はおやめください。リヒャルト様は私の義父になられるのですから、プランディラ、もしくはプランとお呼びください」
「そうは参りません。アルトゥルとの婚姻が成されるまでは、あなたは伯爵家の御令嬢。私より身分は上なのですから」
「はじめまして、プランディラ様。僕はアルトゥル・フォン・ホーエンドフトです」
「はじめまして、アルトゥル様。私はプランディラ・フォン・モーランドです。私のことはプランとお呼びください」
プランディラはそう言ってスカートの裾を摘まみ上げて挨拶をした。
七歳とは思えないほどに教育が行き届いていると感心した。
「はい、プラン様。それでは僕のことはアルトと呼んでください」
僕はそう言って頭を下げた。
その間にリヒャルトと御者をしていた男――たぶん執事さんだとアルトゥルは予想した――がなにか話しているので、そちらに傾聴した。
「ところでセバスチャン殿。予定より到着が遅れたようですが、なにかあったのでしょうか?」
「実は水晶狼の群れに馬車を襲われましてな」
「なんとっ!? 水晶狼の群れに……よくぞご無事で」
「ディータという名の冒険者に命を救われましてな」
「それは私も昨日報告を受けました。なんでもひとりで水晶狼を三十匹近く仕留めたとか。この領地の者でしたら是非礼を言いたいのですが」
「それが、私にもわからないのです。昨日、ふらりと訪れた冒険者だとしか。ただ、冒険者ギルドの者の話では、アクアドラゴンの水角を十本所有していたとか」
「アクアドラゴンの角……あの強さならあり得ない話ではありませんが、しかしそうなると、最低でもレベル80を超える冒険者ということに……」
二人の話を聞いて、想定以上に情報が広まるのが速いことにアルトゥルは内心焦っていた。
「……ディータ様……レベル80を超える冒険者」
話を聞いていたのはアルトゥルだけではなかったらしい。
ディータに関する話を聞き、プランディラが呟くように言った。
「アルト様、私、この町の冒険者ギルドに行きたいですわ」
「この町の冒険者ギルドに?」
まさか、ディータのことを調べるために行くのだろうか、とアルトゥルは警戒した。
「はい。私の母は一流の冒険者でした。私も物心ついたときから冒険者としての訓練を受けています。セバスチャンは今でこそ執事として働いていますが、私が生まれる前は母と一緒にパーティを組み、世界中を飛び回っていたと聞いています」
箱入り娘のお嬢様というわけじゃなかったのか――とアルトゥルは彼女に対して偏見を持っていたことに少し反省をした。
「屋敷の外に出るならお父様の許可をもらわないといけません」
「そうですね――リヒャルト様。アルト様と一緒に町を見に行きたいのですが、よろしいでしょうか?」
プランディラがリヒャルトに尋ねると、彼は面白そうに笑った。
大人の退屈な話に飽きた子供たちが、町に遊びに行きたいと駄々をこねている――そんな風に思ったのだろう。
リヒャルトはセバスチャンに微笑みかけると、彼もまた柔和な笑みで頷いた。
「アルト、セバスチャン殿の言うことをしっかりと聞くんだぞ」
「はい、お父様。それでは、プラン様参りましょうか」
こうして、セバスチャンという護衛がついているものの、初めてのアルトゥルとプランディラのお出かけはスタートした。
そして、アルトゥルは三分で後悔した。
「いい天気ですね、プラン様」
「ええ、そうですわね、アルト様」
「…………」
会話が続かないのだ。
これまでアルトゥルが接してきた同い年くらいの少女はエリーザベトしかいなかった。エリーザベトは、アルトゥルが何も聞かなくても自分の話題をひたすら続けていたため、彼は聞き役に徹してきたから話に困ることはなかった。
そのため、自分からどう話題を振ればいいのかわからないのだ。
(焦るな。僕は勇者ディータだぞ。前世の経験があれば――)
アルトゥルの脳裏に過ったのは、魔物を蹴り飛ばすディータ。
(前世の記憶さえあれば)
魔物を切り殺すディータ。
(前世の思い出さえ――)
魔物を爆破するディータ。
アルトゥルの記憶の中には人と会話したことよりも魔物との戦闘の思い出しかない。当然だ。彼は千年以上生きてきたが、その人生の大半は無限迷宮で孤独に過ごしていたのだから。元々、誰かとの会話は苦手ではなかったディータであったが、しかし人生を十回以上やり直してもお釣りがくるほどの孤独の記憶が、彼にコミュニケーション能力を欠如させていた。
つまるところ、ディータは後天的コミュ障だったのだ。
今にして思えば、ディータをイメージして話をしていたときの口調も随分と偉そうだった。その上からの態度でマウントを取り、自分本位に話を進めようという、いまのアルトゥルとは別種の、会話が苦手なものの典型的なパターンだ。
アルトゥルと転生し、その精神がリセットされたため、幾分かはマシになったが、しかし前世の記憶があてにならないことはわかった。
さて、なにを話すか。
「アルト様、このあたりにはどのような魔物が生息しているのですか?」
プランディラが尋ねた。
「……魔物に興味がおありなのですか?」
「ええ。おかしいですよね、淑女が魔物だなんて」
「いえ、そんなことはありません。そうですね、このあたりは」
得意分野の話題が出たことで、アルトゥルはさっきまでとは別人のようになめらかな口調で説明を始めた。
「ということで、モールバードの巣から卵を奪うときは、一度巣の中に水を流し込むのがいいそうなのです」
「そうなのですか。アルト様は随分と魔物に詳しいのですね」
「はい。魔物の生態だけなら千年前と大差ありませんから」
「……え?」
「あ、いえ、古い本に書いてあることをそのまま言っただけです」
アルトゥルはそう言ってごまかした。
(危ない危ない、いくら精神年齢が子供だからといって、ついうっかりしすぎだよ、僕。ずっと秘密を守り通してきたのに、こんなことで正体がバレてたまるか)
ずっとと言っても勇者の生まれ変わりと確信してから数日しか経過していないことにアルトゥルは気付いていなかった。
ついでにいえば、これは精神年齢が子供なのが原因なのではなく、ひたすら孤独に魔物と戦い続け、人との会話術を学んでこなかったディータであっても同じような失敗をしていただろうということにも気づいていない。
「プラン様、冒険者ギルドはあそこです! うちの領地には出張所しかありませんけど」
「出張所っ!? 出張所なのですかっ!?」
何故か嬉しそうにプランディラは言った。
「え? えぇ……嬉しいのですか?」
伯爵領なら、出張所ではなく、きちんとした支部もあるはずなのに、何故出張所の存在にプランディラが興奮しているか理解できなかった。
「本来、冒険者になろうと思えば支部で適性検査、犯罪歴、身分照会が必要で、成人前の子供の場合は親の許可も必要になります。出張所は冒険者ギルドの会員として本登録ができない代わりに、審査がとても緩く、名前を言って銀貨を支払えばだれでも仮登録できるのです」
「プラン様は冒険者ギルドに登録したいのですか?」
「はいっ!」
子供のようなプランディラの無邪気な笑顔に、アルトゥルは少し安心した。
「では、行きましょう。セバスチャン様もよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論ですとも」
黙ってアルトゥルたちの後ろをついてきていたセバスチャンに許可を取り、アルトゥルは昨日ぶりに冒険者ギルド出張所の扉をくぐった。
やはり、子供が冒険者ギルドに訪れるのは珍しいのか、アルトゥルとプランディラは周囲から奇異の目で見られた。そんな二人を優しく出迎えてくれたのは、受付嬢のマルシャであった。
「いらっしゃい。今日はお父さんの付き添いかな?」
どうやら、セバスチャンのことを父親と勘違いしているらしい。
アルトゥルとプランディラのことは、似ていない姉弟とでも思っているのだろうか?
「冒険者ギルドに仮登録をお願いしたいのです」
プランディラが言うと、マルシャは笑顔を崩さずに尋ねる。
「登録料に銅貨五十枚、身分証明ができるものがなければ銀貨一枚が必要になるけど、大丈夫かな?」
「はい、問題ありません」
「僕もです」
アルトゥルが言うと、プランディラは驚いたように彼を見た。
どうやら、アルトゥルも冒険者として仮登録するとは思っていなかったようだ。
「かしこまりました。では、名前を教えてくれるかな?」
「プランディラ・フォン・モーランドです」
「アルトゥル・フォン・ホーエンドフトです」
プランディラとアルトゥルが自分の名前を言って自分の身元を示す伯爵家、准男爵家の一員である証のブローチを見せた。さっきまでのマルシャの笑顔が固まった。そして、
「しょ、少々お待ちください」
彼女はそう言って奥の部屋に行った。
暫くして、
「所長! 所長、大変んです! 貴族家の御子息と御令嬢がぁぁっ!」
と大きな声がアルトゥルの耳に届いた。
昨日と同じような光景に、もしかして、もう一度所長室に呼び出されるのではないかと身構えたが、奥の部屋から観念したような表情のマルシャひとりが戻ってきた。
「申し訳ありません、それでは仮登録を進めさせていただきます。プランディラ・フォン・モーランド様、アルトゥル・フォン・ホーエンドフト様。両名の仮登録を致しますので、それぞれ銅貨五十枚の御呈示をお願いします」
「わかりました。セバスチャン――」
「待ってください、プラン様。ここは僕が払います」
そう言って、銀貨一枚を取り出した。
昨日稼いだお金だ。
「よろしいのですか、アルト様」
「はい。デートで淑女のエスコートをするとき、支払いをスマートに済ませるのが紳士であると義姉に何度も言われましたから」
アルトゥルはそう言うと、即完成した木札を銀貨一枚と引き換えに受け取り、そのうちプランディラの名前が書かれた木札を彼女に渡した。
「これは初デート記念の僕から婚約者へのプレゼントです」
そう言うと、彼女は木札を持ったまま僕の顔を見て笑顔で言った。
「ありがとうございます、アルト様」
どうやらデートは成功のようだと、アルトゥルは心から安堵し、自分に対して洗脳的な教育を施してくれた義姉に感謝したのだった。
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