竜の谷と呼ばれる谷は少なくない。
しかし、それは飛竜が飛び交ったり、谷底の湖に水竜が住んでいたりするものがほとんどだ。飛竜や水竜は一般人にとって脅威であるが、しかしそれらは本物の竜ではない。
見た目が竜に似ているというだけだ。
「……『似てない!』とあいつは言っていたな」
アルトゥルはそう言ってかつてこの谷にいた一匹の真竜を思い出した。
ディータが邪神を倒すために旅をしているとき、まだ五十歳にも満たない幼竜が畑を荒らしているので退治してほしいという依頼を受けた。
退治にいったディータだったが、空を飛ぶドラゴンを相手に苦戦した。
それでもドラゴンの翼に傷をつけ飛行バランスを崩し、止めを刺そうとしたその時、オークの群れが現れたのだ。
後からわかったのだが、北の森で騎士隊によるオーク退治の遠征が行われ、逃げ出したオークが谷に逃げてきたらしい。
ディータはドラゴンよりも村に押し寄せるオークから村を守るために戦うことになった。
その時に力を貸してくれたのが、その幼竜だった。
『我の縄張りを守るためだ。別にうまい野菜を作っている村人を守るためではない』
仲間の一人が、
「あ、これツンデレだ」
と言ったのは千年以上経った今でも覚えている。
幼竜は驚くことに人間の言葉を思念として伝える術を知っていた。
幼くても真竜なのかと、ディータは恐れ入った。
そして、オークは無事に退けられ、幼竜は一定量の野菜と引き換えに村を守る守護竜となる契約を結ぶことになった。
そのあとも、その村を拠点として過ごしていたとき、近くを通ったとき等、何度もその真竜――名をファーヴルというらしい――と交流した。
また、ディータが剣を失ったとき、ファーヴルが自らの角を俺に託して剣に鍛えるように言ってくれたときには感動した。
その剣も邪神と戦っているときに折れてしまったが、アルトゥルはいまでも、その剣がなかったら、ファーヴルがいなかったらディータは邪神を倒すことはできなかっただろうと思っている。
邪神を倒した後、折れた剣はファーヴルに渡した。
「村はもうないんだよな」
前にここを訪れたときに、それは確かめていた。
なにがあったのかわからない。かつて石垣があった場所と井戸があった場所にある残骸以外の痕跡が見つからなかったことから、きっと村がなくなったのは十年や二十年前の話ではないだろう。
ファーヴルが好んだ野菜の育っている畑も、いまは雑草が生い茂っている荒地になっていた。
アルトゥルは谷の奥を目指した。
この先に真竜がいる。
真竜の寿命は五百年程と言われているから、この奥にいるのはファーヴルの子孫か、それとも全く違う場所から来たのかわからない。
谷を暫く進むと、千年前にはなかった池を見つけた。
アルトゥルが池を見詰めると、その水面を影が横切った。
見上げると、巨大な影が横切った。
あの赤い鱗、間違いない真竜だ。
真竜は警戒しているのか、こちらに向かって降下してくる。
あの巨体だ、受け止めるのはちょっと面倒だと思ったアルトゥルは飛翔の魔法を使った。
『ほう、飛翔の魔法を使うとはなかなかやるな。正体を現したらどうだ?』
ファーヴルと同じように、その竜は念話を使ってきた。
五十歳かそこらのファーヴルも使えたのだ。明らかに成竜の子のドラゴンが使えないわけがない。
「正体を現せとはどういうことだ?」
『白々しい。土の人形を纏い、幻影で誤魔化しているだろう』
「なるほど。確かに客人としては悪いことをした」
アルトゥルはそう言うと、土の人形と光の幻想を解除した。アルトゥルの身体に纏わりついていた土の一部がぼとぼとと重力に従って落ちていく。
「これでいいかな?」
『む、子供ではないか……』
「まぁね。でも、こっちの方が強いよ」
アルトゥルはそう言うと、身体に残っている土に魔法をかけた。
すると、土が一本の剣に変形する。
『風に土、そして光――トリプルソーサラーか。面白い。ならこれを防いでみせよ』
真竜は嬉しそうに口を開けた。
大口を開けて笑っている――のではない。その口の奥から炎の塊が噴出された。
炎は大きく広がり、いまにもアルトゥルを飲み込もうとする。
だが――
「微風」
アルトゥルが魔法を唱えると、強風が吹き荒れ、炎を押し返した。
このままでは自分の炎に飲まれてしまうと思った真竜は大きく上空に飛びあがり、そして気付いた。
自分が逃げたその先にアルトゥルが回り込んでいたことに。
アルトゥルの剣は竜の額に当てられる。
『何者だ? お前は本当に人間か? 悪魔の生まれ変わりか?』
「うん。正真正銘、タダの人間だよ。前世も人間だった……と思う」
『何が目的か? 私の命か?』
「僕の従魔になってほしい」
『断る。我は竜の女王に仕える衛兵。忠誠はあの方に捧げている。他の主君は持たぬ』
それを聞いて、アルトゥルは眉をひそめた
(竜の女王? そんな竜がいるんだ)
真竜が蜂や蟻のように女王制をとっているという話は聞いたことがなかった。
だが、真竜は強い者に圧倒的な力で負けたとき、その者に忠誠を誓う性質を持つ。だからこそアルトゥルは真竜を従魔にできると思ったのだ。
「なら、竜の女王と交渉させてくれないかな?」
『待て――』
真竜はそう言うと、目を閉じた。
念話で誰かと会話をしているのだろうか?
一分も待たされることはなかった。
『わかった、竜の女王の下に案内しよう。儂についてこい』
その真竜は挑発するように『ついてこられるならな』と言った。
直後、真竜の姿が一瞬に小さくなる。
一気に遠くに飛んでいったのだ。
「なるほど、確かに速いな」
『むっ!?』
即座にアルトゥルは真竜に追いついた。
真竜はさらに速度をあげるが、しかしついていくことなど造作もない。
速いといったが、それはあくまでも地上での話。
無限迷宮の下層では、それこそ音の速さを超えて走る魔物が山のようにいた。
真竜はアルトゥルを引き離そうと速度を何段階も上げ、谷を往復したが引き離せるはずがなかった。
そして元の場所に戻ってきた真竜はそのまま池の中に急降下した。
迷わずアルトゥルもその後についていく。
すると、突然世界が変わった。
そこは、まるで玉座の間だ。
ただし、そのスケールは人間の城の者の百倍くらいある。
(魔法空間か。収納魔法と同じ原理かな)
池に魔法的ななにかが使われていることはアルトゥルも気付いていたが、しかし魔法空間に繫がっているとは思わなかった。
そして、その玉座の間には、一頭の真竜がいた。
先ほどの真竜も大きかったが、この真竜と比べると霞んで見える。
アルトゥルの実家よりも大きい。
(なるほど、これが竜の女王か。レベルは八百くらい、地上では間違いなく最強の一角だ)
竜の女王は興味深げにアルトゥルを見て、笑みを浮かべた。
「なるほど、確かに強そうじゃな」
「喋ったっ!?」
「何を驚くことがある。お主だって喋っておるではないか」
「それは僕が人間だから――」
「言語が人間だけの特権だと思うのが烏滸がましい」
そう言われたら確かにそうだとアルトゥルは思った。
その昔は喋る剣にも出会ったことがある。
それに比べれば、竜が喋ることくらいどうということはない。
「ごめんなさい。知っている真竜は、人間の言語の発音は難しいと言っていたから驚いただけなんです。謝罪します」
アルトゥルはそう言って頭を下げた。
「まぁ、それは間違いではない。確かに竜の口で人間の言語の発音はなかなか骨が折れるからの。それで、ここにはなにをしに参ったのじゃ?」
「僕の従魔になってくれる真竜を探しに。あとは知り合いの真竜の墓参りに」
「真竜を従魔に……か。本来ならそのような不敬なことを言う人間は笑い種になるか怒りに任せて食い殺されるのが関の山じゃろうが、うむ、確かにレギノの言う実力があればどちらにもできん。主にはそれだけの実力がある。レギノ」
『はっ』
先ほど、アルトゥルと戦った真竜はレギノというらしい。
レギノは竜の女王に名を告げられ、その場にうつ伏せになる。
跪いているのと同じ意味らしい。
「お主、この坊主の従魔になるつもりはないか?」
『恐れながら、儂が忠誠を捧げたのは女王様です』
「そうか……うむ、困ったの」
竜の女王はそう言った。
まぁ、こうなるだろうということは予想できた。
竜の忠誠というのはそう簡単には変えられない。
「ならば竜の女王様、僕とあなたが戦って、僕が勝ったらあなたが僕の従魔になってくれませんか?」
僕がそう言うと、レギノが牙をむいた。
『儂に勝ったからといって思い上がるな、小僧!』
「待て、レギノ。坊主、名前はなんという?」
怒りで我を忘れそうなレギノに対し、竜の女王は穏やかな口調で尋ねた。
「アルトゥルです」
「そうか、アルトゥルか。残念ながらアルトゥル、それは無理じゃ。私も既にこの忠誠はある人間に授けておる。負けたからといって、否、殺されようともその忠誠は変えられん」
アルトゥルは今日で一番驚いた。
地上において、こんな真竜に忠誠を誓わせるような者がいるということに。
「じゃが、お主のもう一つの手助けはできるぞ。墓参りじゃったか。人間で言うところの墓はないが、しかし真竜の骨を安置している場所がある。野ざらしにしたら人間に奪われるからの。そこに案内させよう」
「ありがとうございます。あ、その骨の前に蜂蜜酒の樽を置いてもいいでしょうか?」
「蜂蜜酒だと?」
「ええ。蜂蜜酒が好きだった奴なんで、きっと喜ぶと思うんですよ」
「そのような同胞がいたかのぉ……アルトゥル、その者の名は知っておるか? まさか、飛竜や水竜などと勘違いしておらんか? 奴らは竜とは呼べん種族じゃぞ」
「いえ、間違っていませんよ。名前はファブールというのですが」
そう言った直後だった――急にレギノがアルトゥルを爪で引き裂こうとした。
「石壁」
床に使われている石に魔法をかけて変形し、即席の壁を作ってレギノの振り下ろされる爪を防ぐ。
「なんのつもりだ」
『なんのつもろいかだと? ふざけおって』
「もしかして、ファブールの名はまずかったのか。お前の敵だったとか、昔いじめられたとか!?」
『まだいうかっ!』
「待て、レギノ!」
止めたのは竜の女王だった。
そして、竜の女王はアルトゥルに対して尋ねる。
「アルトゥルよ。お主がそのファブールという竜と出会ったのはいつのことじゃ?」
「遥か昔の話です」
「具体的には?」
そう聞かれて、アルトゥルは迷った。
正直に千年前と答えていいものかどうか?
しかし、彼女たちに正直に答えても、それが人間の世界に伝わる確率は低いだろう。それより、正直に答えてファブールと彼女たちの間になにがあったのか知るのが優先だ。アルトゥルはそう思った。
「千年前です」
『まだふざけるのかっ!』
レギノは脳の血管が切れそうなくらい怒っている。
信じていないのは明らかだった。
直後――その巨体は吹っ飛んだ。
一瞬にして飛び上がり、レギノの右頬を殴りつけたのだ。
アルトゥルはそれを捉えることができたが、レギノにはできなかったのだろう。
「待てと言ったのに聞き分けのない奴じゃ……」
そう言った竜の女王をアルトゥルは見上げた。
自分が小さいこともあるが、しかしそれでも竜の女王の大きさは目を見張る。
(飛んだ時に使った翼もレギノのものよりも大きく――ん?)
アルトゥルは竜の女王の翼を見て気付いた。
そこに古い傷があることに。
そして、その傷の位置には見覚えがあった。
「なるほどの。私の古傷を見ているところを見ると、なるほど、ようやく合点がいったわ」
「僕も――いや、俺もだ。ファブールはお前だったんだな」
「うむ、その通りじゃ。久しいの、ディータ」
千年以上の時を経て、一人と一頭は再会を果たした。
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